罪とは

 人は罪を犯す。罪には刑法上の罪もあるが、刑法に触れなくても、人をだましたり、言葉で傷付けたりする罪もある。また戦争なんていうものも国際法に触れなければ罪にならないかと言ったら、そんな事はなくて、やはり罪である。

 我々は神の子であり、誰でもその魂の奥底には善なる神性がある。しかし、その自覚が魂の奥底に深く眠っている者は残酷な罪を平気で犯す。それは人間の生命の尊さが分かっていないからである。
 そして、いっこうに罪の意識なく、非道な事をやり続けるが、信仰などに触れ、魂の神性、善性に幾分目覚めて来ると本来持っている神性の働きにより罪の意識が出て来る。
 そもそも罪というものは自分の本物の魂である善なる神性の上に積もり積もった積みが罪という事であり、その罪のごもくの山があまりに沢山積もっている場合は何でもないが、自分の善なる神性の魂が幾分目覚めて来るとその上に積もった罪というごもくがブスブスと燃えだし、煙を出すようになる。そして、それが本人に取っては煙くてたまらなくなるのであり、それが、罪悪感、又は良心の呵責である。
 
 そうなると、人は自分が過去に犯した罪を振り返って、その罪の深さに慄然とする。あの時、あの人を傷付けてしまった。自分の責任で大変な損失を会社に与えてしまった。私は何人も子供を堕ろしてしまった等々。

 しかし、そもそも罪とはなんであろうか?生長の家では罪とは既に述べた様に本物の善の魂の上に積もった、積みが転じて罪であるとも教えているが別に「つつみ」という言葉がつまったものであるとも説いている。
 即ち罪とは包みであり、それは我々の本来の完全円満な実相を包んで覆い隠している事が罪であるというのである。

 即ち、罪とは自分が過去にこれだけの間違いを犯しました、これだけの失敗をしましたという事ではなくて、実は我々の本来完全円満な実相を認識しないで覆い隠してその素晴らしさを発揮していないという事が罪という事なのである。

 従って、どんなに形上の罪を犯した事がないような人でも自分の完全円満な実相を自覚していないで実力を発揮していない人は罪人であり、どんなに過去に人に迷惑を掛け、悪いことをした人でもひとたび、自分の生命の実相はそんな不完全な事をするものではなく、そんな罪を犯したという事は本来存在しないことであり、自分の本当の生命の実相はこのままで完全円満な清浄無垢で無限力で無限健康であると自覚し、その実力を発揮した者は罪が赦されているという事になる。

 しかし、そもそも人間は何故、罪を犯すのであろうか?それは真理を知らないからである。今までそして今でも人類は戦争を繰り返し、実におびただしい数の人類が戦争や大量虐殺等の犠牲となって来た。
 それは戦争する敵国人を悪いやつだと思っているからである。悪いやつだから、殺しても何してもそれはいいことだと何となく思っているのである。それが人類に罪を犯せしめる元の元の迷妄である。相手が自分に対して何の悪意もない素晴らしい神の子であるという認識があれば、相手を攻撃出来るものではない。そうなれば相手を攻撃するどころかそれを理解し、愛する事が出来るのである。
 しかし、人類は迷い深い時代は、人間の生命の実相は完全円満な神の子であるという真理に目覚めないから相手を自分を攻撃して来る悪いやつであると思って相手に平気で残虐な行為をしてしまうのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-05-11 15:25 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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