真の学びとは

 生長の家では人間は神の子でその実相は完全円満であるという。そして、実相においては既に完全円満であるから、既に幸福であり、無限力であり、完全円満であると説く。

 だから、どんなに表面的に愚かで悪い人でも、それは表面だけの事で、その実相は完全円満で無限力で素晴らしい神の子であると説くのである。だから、我々はどんなに下劣に見える人間、能力を発揮していない人間がそばにいたとしても、それは仮の姿であって、その人の実相は既に悟りを啓いた、無限力であると観なければならないのである。

 しかし、同時にその相手が愚かな事をする場合、まだその相手の自覚の段階が完全に目覚めた状態ではなく、まだ魂が幼いと言う事も出来る。それでは我々はそうした相手に対してはどう観るべきであろうか?まだ魂の自覚の幼い人であるとみなすのか、それとも既にその実相は悟りを啓いた人であると観るのか?

 私はやはり、どんな下劣に見える人でもその人の真の姿は完全円満の神の子であり、既に悟りを啓いた尊敬すべき人であると観るのが信仰であると信ずる。そして、具体的にはその人の現象に出ている良い面のみを凝視する様にするのが良いのである。

 我々は人生学校において、色々の経験、学び、修行をして生長して行く。しかし、今の自分を不完全であると思って、これから、これだけの経験、修行をして、これだけの事を勉強していかなくては完全になれないなんて言っていては我々は永遠に完全になる事も救われる事もないのである。  
 我々は今、既に神の子であり、完全円満であり、そうした人生経験、修行というプロセスは全て我々の既に完全円満の実相の展開であり、現象に過ぎない。
 そんなものは本来存在しないのであり、本当に存在するものは今、完全円満の自分と相手がここに神に生かされているのであるという事だけである。

 我らは人生学校に於いて、色々学び、こういう失敗をしたら、こういう事はまずいなとかうまいやり方ではないなとその都度、学ぶ。それはそれでいい事だが、そうした事を全て、学ばなければ、神の子になれないというのでは我らは永遠に神の子にはなれない。
 
 本当の学び、悟りとは自分が今、そのままで完全円満で無限力であるという事を悟る事である。それが一気に実相の中心に飛び込むという事であり、今、ここに神の国があるという事であり、我、神の子なりの自覚である。

 我らの実相においては我らは皆、今、無限で完全円満で完全な悟りを啓いている。それが真理である。それを悟る事である。その悟りが実相の中心に一気に飛び込むという事である。しかし、その悟りを得る中でも現象的には色々と具体的な進歩のヒントを得て、現象的にも一歩一歩、生長、進歩して行くのである。
 例えば、私などはテニスをやっているが、私は自分のテニスの技量が今、完全であると信ずるのである。それが自信であり、自分はまだ下手だ、まだ駄目だと思っておれば、練習すればするほど下手になるのである。自分は今、既に上手い、出来ると思った時、始めて上達するのである。それが生長の本道に乗るという事であり、それは取りも直さず、自分が今、既に完全円満であるという自覚であり、悟りであり、実相の中心に飛び込むという事である。
 しかし、現実には試合経験からいくらでも新たに学ぶ事がある。即ち、現象的には一つ一つ学んで、少しずつ上達するのだが、自分の自覚の上では自分は完全であり、無限力であると確信している。
 それが有限即無限、無限即有限という事である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-05-16 16:23 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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