神様に任せる。

 私は先週、仕事で立て続けにミスを重ねた。しかも同一人物に対してである。何か恥ずかしいやらきまりが悪いやらでちょっと落ち込んだが、その後、どうしてそんな事になるのだろうかと静かに考えてみた。こういう時は神様が大切な何かを教えてくれている時だからである。
 
 私は自分で言うのも変だが、人一倍真面目で責任感が強く、仕事は間違いなく完全にやらなくてはならないという意識が非常に強い。今回も自分としては完璧に落ちなくやったと思った処置だったが、漏れ、落ちがあったのだった。
 余りに完全主義だと却ってこの様に取りこぼしがあるのである。それは我(が)が頑張っていて、全知全能の神様にお任せしていないからである。お任せしていなければ唯一の力であり智恵である神様は流れ入って来ず、だから、ミスするのである。ミスするのは心の明かりが暗いからであり、私が私がと思っている場合、神様の光が入って来ないからいくら一所懸命やった積もりでもどこかにミスが出て来る。

 私は信仰を持っており、神様に全託する事が大事であると思っていたし、説いても来たが、その私の信念が完全に生活化されていなかったのである。
 完全主義というのはものごとを自分の力だけで何とかしなくてならないという力みである。仕事を完全に落としや穴なくやりたいという気持ちは分かるが、そんなのは我(が)であり、我(が)の力なんて所詮大した事は出来ないのである。
 
 我々は自分だけで生きている様で実は我々の中に存在し、かつ宇宙にくまなく偏在している完全円満の神に生かされているのである。それが証拠に今、我々は生きているが、その我々の心臓を動かし、血液を循環せしめ、その他あらゆる生理作用を我々がこうしようと意識しなくても我が内の神はその運行を完全に司っている。
 自分が寝ないで常に張りつめてこれらの生理作用を自分自身でやっているという人がもしいたら教えてもらいたい。
 我らは神の子であり、内にある神に完全に生かされているのである。それならば、我らは生理作用だけではなく、全てを神様に全託すべきである。
 
 神様に全託するという事は自分の一挙手一投足、全て神様に委ねるという事である。自分でやっている様で自分ではないのである。失敗を恐れて全部自分がやらなくては、注意していなくてはならないと戦々恐々としてやるのではなく、神様が自分を通して自ずとものごとをつつがなく完全に遂行して下さる事を信じて、ゆったりとやるのである。

 そうすると自ずと気が付くべき時に気が付かなくてはならないものに気が付き、思い出すべき時に思い出さなくてはならない事を思い出し、また例え自分が忘れていても不思議と運良くものごとが誰かを通してうまく進行するのである。それを信ずるのが信仰である。しかし、その為には捨て身にならなくてはならぬ。失敗を恐れて、自分を握っている様では駄目である。

 私はこの事が生活の中で仕事を遂行する中で本当に分かっておらず、それで私が仕事を完璧に隅から隅まで戦々恐々として失敗を恐れてやらなくてはならないと思っていたから、私の中の神様が出て来ないでそれで却ってミスを連発していたのである。
 でも、仕事は自分を通して神様がやって下さると思い、思い切って自分を握る事をやめ、捨て身になった。その様に神様に全託する気になってから今までぎすぎすしていた心が非常に楽になり、行雲流水のごとくなって来た。

堀 浩二
by koujihori | 2006-06-05 12:29 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented by yukie sakai at 2006-06-07 01:23 x
神我一体の境地、素晴らしいですね。   仕事の中に生命と信仰を見出してこそ日本人ですね。  

私はデパートで働いています。 笑顔の裏でミスの無いように毎日緊張の連続でくたくたになります。 堀さんほど、責任のある仕事ではありませんが、共に仕事をして下さる皆さんを信頼して、仕事と一体に成る様に
努力」しています。  自分がお客様に気に入られようとすると、隙が出てミスに繋がります。 無我になり、デパートの一員として動けば調和のある動きが取れるとこの頃気付きました。  行雲流水、まさにその通りですね。 
Commented by koujihori at 2006-06-07 08:45
yukie様

 コメント有り難うございました。我々は神の子ですから、今、このままで力まなくても神様に完全に生かされていて、既に行雲流水の状態なのだと思います。
 我々の生長というのはその事に色々な経験、段階を通して徐々に気が付いて行くという事だと思います。

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