私の忠

 世の中には自称愛国者という人が居て、我こそは国を愛している。天皇に忠を誓っているという人がいるが、それが「私が、オレが」と我(が)が力んだものだとそれは既に忠でも無ければ、愛国でもない。

 生長の家創始者谷口雅春先生はこんなのを本当の忠とは言わず、「私の忠」というのであると仰っている。

 同様に無我献身という事も我(が)が頑張ってやっているというのではそれは既に無我献身ではない。他の人の幸福の為にそして国の為に世界平和の為に人類救済の為に自己を捧げきり、挺身するという事は大変尊い事である。しかし、それがオレがやっている、私がやっていると力んだ所に既に我(が)がある。

 本当の捨身という事は我(が)が頑張って出来る事ではないのである。私は人類光明化の為にこれだけ自己を犠牲にしてやっています、これだけ掛けていますと言った所でそれが我(が)が無理にやっているようでは真の無我献身ではない。
 
 本当の忠、本当の愛国、本当の無我献身というものはそんな我(が)による頑張りで出来るものではなく、我らが今、やるべき事を当たり前にやり、真摯に求道、又は他の人への愛行をたゆみなくやって行く中である時、自然と出来る様になるものである。
 それは現象の奥にある我々の生命の実相が完全円満であるから、我々の現象の奥の真の姿は力まずとも今、そのままで無我献身、捨身そのものであるのである。それが真摯な求道、伝道生活の中から自ずと出て来る様になるのである。真の無我献身とはそうなる事により出来るようになるのであり、その時、我らは力まずとも忠であり、捨身であり、無我献身である。そして、そうなることを解脱するというのである。

 そうなった時、我らはそのまま当たり前の生活をする中でそれがそのまま忠であり、無我献身となる。趣味をしながらも、映画を観ながらも、自分の会社の仕事又は商売に熱心にいそしむそれがそのまま忠であり、無我献身である。何故なら今、そのままで全ての全てが神様であったということが分かるからである。自分の体は自分の体ではなくて神の体である、自分の仕事は自分の金儲けの為の仕事ではなくて神の仕事であるという事が分かるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-06-08 11:18 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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