生長

ものごとをする上で努力が大事であるというのは言うまでも無い。しかし、いくら練習しても努力しても全然進歩しない事がある。練習とか努力をすれば、上達すると思うから練習するのであるから、上達したい、スポーツの試合などで勝ちたいと思っている人は当然、練習に励むのである。
 しかし、以前もここでちょっと紹介した事もあるが、余りに練習をし過ぎるのもオーバーワークと言って、却って本番の試合で良くない結果になる事がある。ボクシングの世界ジュニアミドル級元チャンピオンの輪島功一選手も、柔道の井上康生選手も素晴らしい努力家であり、それが為に余りに練習をし過ぎて、オーバーワークになって大事な試合で負けてしまった事がある。
 
 そういう人は試合に対する不安、恐怖があり、練習に励む事でそれを払拭しようとするのだと思う。つまり自分はまだ駄目だ、まだ力が無い、だから練習をしてもっと強くならなくちゃいけない、今は弱くても練習すれば、強くまたは上手くなるだろうと何となく思っていると思う。
 しかし、実は我々は自分の練習や努力を重ねる事で徐々に強くなったり、上手くなったりするのではない。

 練習や行に励む事により良くなったり上達するのではなく、練習したり、行に励む中から、自分の中にある日、突然本物を発見するのである。そうなるとぐっと実力が上がる。それが上達という事であり、生長という事である。
 練習や努力や宗教で言うなら行を積むという事は大事であるがそれでろくでもない力のない自分が徐々に力をつけ、よいものになると思うのは間違っている。
 そうではなくて、たぬまぬ努力をして行く中である日ふっと自分の中に本物を発見するのである。それは練習とか努力なんて事で良くしていかなくても始めから完全円満のものである。それを我らの実相と呼び、内なる神というのである。それを発見すると格段に上達する。
 
 だから、ものごとの進歩とか上達というのは毎日の練習をする中でスロープ的に徐々に進歩するのではなく、いくら努力しても全然進歩しない状態が続くがある日、突然格段に進歩するという階段的な進歩するのである。

 その中で自分が練習などしなくてもそのままで完全円満であるという事を発見する。そうなると却って自ずと練習や行をしたくなる。それが我が内の神による自ずからなる発動、行である。それは自分は駄目な、弱い自分であると見て、それを良くする為の練習や努力ではなく、自分の中の始めから完全円満の神の生命、即ち実相が自分で出て来て、自分で嬉しくて活動する事による自然な練習となる。

堀 浩二
by koujihori | 2006-07-18 09:35 | 信仰 | Trackback | Comments(1)
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Commented by yukie sakai at 2006-07-22 03:09 x
合掌 ありがとうございます

 堀先生、 私、酒井もブログを立ち上げてしまいました。 福岡教区のIT担当になってしまったので、ウルトラ初心者の私ですが、堀先生と言う素晴らしい先生をお手本に、楽しみながら、感謝と祈りを込めて、生長していきたいです。 
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