真の愛行とは

 生長の家では「愛行」という事が強調される。愛行とは文字通り、愛の行いである。思いやりとか愛情を実行するのだ。

 大体、愛とは何かと言ったら、単なる「好き」という感情とは違うと生長の家では教えられている。生長の家創始者谷口雅春先生は「リンゴを好きという心はリンゴを食べてしまって、その味覚を楽しみそれを好み、後はそのリンゴの皮と芯を捨ててしまう様な心である」という絶妙の例えで、単なる「好き」という感情は極論すれば、この様な事であり、それはある男がある女を「私はお前が好きだ。」という場合はその女の肉体が単に好きだという事であって、それを抱いてセックスした時の肉の感触が単に好きであるという事と同じであるとお教え下さっている。

 だから、単に相手を好きであるということは極論すれば相手を自分の肉体的快楽の為に犠牲にしたいという考えであるのである。

 それに対して愛するという事は相手の幸福をひたすら願い、相手に対して思いやりを持つという事であり、時として相手の為に自分の生命を投げ出し得るという事である。それを実行したのがキリストであり、また大東亜戦争末期の日本の特攻隊員達である。
 キリストは人類の為に自らの身を捧げ、特攻隊員達は国の為に身を捧げた。それは犠牲になったのではなく、自分と他の人々または祖国というものが本来バラバラでない一つのものであるという自覚から来る感情であり、その様な自他一体の自覚を愛と言うのである。そしてそれを実行する事が愛行である。

 ところで生長の家では冒頭でも申し上げたが、この「愛行」を実践する事の重要性を説いている。それで最も尊い愛の行いであるのは他の人に生長の家を伝えるという事であると説いている。

 しかし、ともすればこの愛行というのを生長の家の人は他の生長の家を知らないで救われていない可哀想な人達を救う事であると思っているようだ。
 他人に思いやりを持ち、愛を行ずるという事は他人を不完全な救われていない可哀想な人達と思ってこれに同情して、救う事ではない。そんなのは憐憫愛と言って、真の愛とは異なる。
 これも谷口雅春先生の教えだが、相手に同情する憐憫愛というのは相手を却って堕落させ、不幸にするのである。
 真の愛情というものは何かと言ったら、それは自分と他人は本来神において一体であるという悟りであり、神は完全円満のものであるから、相手を完全円満のものとして尊敬するという事である。それが真の愛であり、その心を実行する事が真の「愛行」である。
 
 従って、人類はまだ救われていない人が多くて、それに同情して哀れんでそれを救う為に相手に生長の家の真理を伝えましょうというのは単に憐憫愛であって、真の愛行ではない。
 真の愛行とは現象はどうあろうとも実相においては今、ここが完全円満の神の国であって、自分も他人も全ての人も始めから救われている完全円満の神の子であったという自覚から来るものでなくてはならない。

 ここがこのまま神の国であり、自分が今、そのままで完全円満の神の子であったという事を今、遠慮無く悦び、その悦びの中から嬉しくて魂が発動する時、真に今に集中し、それにより真の心のこもった仕事が出来、また他人に対しては常に行き届いた心で思いやりの行動をする事が出来るようになるのである。その結果、相手に真に悦ばれ、時期に応じて自ずと自分の中の神様から相手に生長の家の真理が伝えられる事になる。

堀 浩二
by koujihori | 2006-07-24 09:41 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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