真の愛行とは(3)

 生長の家の聖典「生命の実相」に出て来る話だが、生長の家創始者の谷口雅春先生が生前、ご活躍されていた頃、道場で先生が信徒にご指導されていた時、ある不眠症の人が先生に自分は不眠症だがどうしたら治るのですかという質問をしたのである。
 そうしたら、先生は「ああ、不眠症とかノイローゼというのは利己主義の人がなる病気だ。愛他的になったら治るよ。」とお答えになったのである。

 私は約十年前に不眠症になった事があり、現在はお陰様で完治しているが、この時はこの生命の実相の話を思い出して、自分は利己主義者なのかとますます落ち込んだ憶えがある。

 ところで谷口雅春先生のご指導の様にノイローゼとか不眠症とは言わずとも、自分の事ばっかり考えているから不安になるのは誰でも分かると思う。自分の名誉も肉体の生命も要らない、ただ相手の為に国の為に生きるという捨身の心境になれば、恐怖とか不安とか心配なんて無くなるのである。何故なら不安とか恐怖というものは自分が悪くなる事に対する心配とか恐怖だからである。だから、大東亜戦争の時の特攻隊の青年の出撃前の写真など実に澄みきった穏やかな顔をしている。
 実際、不安になるのは自分の事ばっかり考えているからで自分を捨て、真に愛他的になれば、そこに本当の悦びと生き甲斐がある。何故なら、我々人間の生命は本来バラバラに分かれたものではなく、自他一体であるからである。

 ところで愛他的になるという事はどういう事であろうか?他の為に生きる、自分の事は気にしない捨てるという事だが、それを我(が)で無理にしようとしてもこれは中々難しいと思う。
 私が私こそが国の為に人の為に生きているのだなんて言った人はもう既に真の愛他的とは言えない。
 私は愛他的になる瞬間というのは無理に我(が)でするのではなく、自分の中の神の働きによりそうなるのであると思う。即ち、自分の中の神の愛が自分で出て来る事により、真の愛他行が為されると思う。
 
 それはどういう事かと言えば、自己の生命の実相を悟るという事に他ならないと思う。愛他的になるという事は悟るという事であり、悟るという事は愛他的になるという事である。
 悟るという事は自己の生命の実相が完全円満であると悟るという事であり、そうなると他の人の生命の実相も完全円満であるという事が分かる。他の人の生命の実相が完全円満であると悟るという事はその相手の実相を拝むという事であり、その相手の実相を拝むという事が真に相手を愛するという事、即ち愛他的になるという事である。
 従って、悟って来た人は同時に自分を捨て、愛他的になるのである。それが真の人類光明化運動である。即ち、人類光明化運動というものは最高の愛他行であり、真の愛他行というのは相手の生命の実相を完全円満のものとして拝むという事である。従って、真の人類光明化運動というものは救われていない不完全な人類を可哀想だから救ってあげましょうというものではなくて、既に一人も救う必要もない完全円満な全人類の生命の実相を拝むという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-09-21 16:23 | 信仰 | Trackback | Comments(4)
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Commented by 酒井幸江 at 2006-09-26 09:54 x
堀先生

 愛行と言う言葉の重みをしみじみと観じます。 今のこの一瞬も大切に生命を礼拝する自分でありたいです。
 人の不完全を掴んで良くしようと力んで、真剣に悩んで、間違いに気付く事もまた人生に必要なカリキュラムと思いますが、力みなく唯神の御心のままに拝めた時の悦びはかけがえの無いものですね。
 榎本恵吾先生のHPでの堀先生の投稿を何度読んでも感動しております。 ありがとうございます。   酒井幸江拝
Commented by koujihori at 2006-09-26 11:26
幸江さん

 コメント有り難うございました。幸江さんは「神との対話」という本をご存知でしょうか?ニール・ドナルド・ウォルシュというアメリカ人の書いた本ですが、これが中々深いのです。

 そこに「この世に悪とか不幸があるのは善とか幸福を如実に体験する為だ。」とあります。これはちょっと読むと生長の家の善一元の実相独在の教えとは異なる様に思えますが、でもそれは「迷いは悟りの基礎工事である」という生長の家の教えと同じ事だと私は解釈しています。

 つまり、私を例に取ると私が「神様に生かされていた、ただ有り難かった」という悦びに目覚めたのは最初は「私が偉いのだ。私が生きているのだ。私がやってやっているんだ。」という我(が)の迷いで一杯になって、それで散々苦しんだ段階を経たからこそだと思うのです。(続く)

 
Commented by koujihori at 2006-09-26 11:26
幸江さん

 つまり、実相の世界における善一元、神一元の世界が現象的に展開する時は悪い状態から良くなるという過程を通して、顕現されるのだと思います。だから、他人を力み無くその実相を拝める様になる為にはその基礎工事として他人の不完全をつかんで良くしようと力むという過程を経るのだと思います。でも、それも全て神様の光が展開して行く姿なのですよね。

堀 浩二拝
Commented by 酒井幸江 at 2006-09-26 22:39 x
堀先生

本当にその通りだと思います。 仏教に四無量心と言う言葉がありますが、慈非喜捨の心で初めて仏の心、神の心が顕れるのですね。捨の心がそのままの心。真剣に慈悲の心を起こさなければ、持つ事の出来ない心ですね。 
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