人は何故謝れないのか?

 日本教文社の本で「人は何故謝れないのか?」という本がある。これは生長の家の人が書いた訳ではないが、中々興味あるタイトルである。

 その内容はまだ読了した訳ではないから、完全には分からないが、パラパラと流し読みした所によるとどうも人間は何か悪いことを本当にしてしまって自分にその責任があると思うと却って中々謝れないものであるという事の様である。
 アメリカが大東亜戦争末期において、日本に原子爆弾を二個も落とした事に関して謝罪した事はないし、これだけではなく、人類史上、残虐な事をしてしまった張本人が謝る事が出来た事は殆ど無いと思う。
 かつてエイズ薬禍で当時の厚生大臣の菅直人が厚生省の落ち度を認め、謝罪した事はあるが、私が思うに菅氏は直接の当事者ではないから謝れたのではないかと思う。人間は本当に自分が恐ろしい事をしてしまった場合、その責任を認める事が恐ろしいから大抵、謝る事が出来ないのである。
 だから、クラスメートをいじめて自殺させてしまったとか少年同士のリンチで殺してしまったなんていう事件があった場合、大抵はその加害者本人は被害者の家族に謝りに来ないのである。

 しかし、罪を犯したという記憶は本人の潜在意識に刻まれていて、それがずっと後になって本人に自己処罰を与える。それが何らかの病気であったり、悲惨な運命にあったり、例え死ぬまでそういう事にならなかったとしても死後やその次の生まれ変わりの人生でそうした自己処罰の為の悲惨な運命をその本人にもたらす。

 だから、キリストは万人の贖罪をその一身に背負って、万人の身代わりとなって十字架に掛かった訳である。従って、キリスト教ではキリスト教に入信してキリストに帰依すれば罪は赦されると説くのである。

 生長の家ではまた一歩踏み込んで、罪というものは本来存在しないと説くのである。
 誠にも罪というものは存在しない。今、このままで。それが実相である。人間が色々現象世界で罪を犯す様に見えるのは人類が人間とはそもそも罪のあるものだという認識が映っているに過ぎない。
 生長の家の教えを素直に受けて、罪ナシと悟れば、今このままで自分が一度も罪を犯した事がなかったという実相が自分の眼前に浮かび上がるのである。

 罪が本来ナイという事は具体的に言ったらどういう事かと言ったら、自分が過去に犯した罪は神様が消して下さるという事である。神に全面的にお任せするのである。
 私はかつて12年位前に車を運転していて自分の不注意から当時20歳位の女性の運転するバイクと衝突事故を起こした事がある。女性はひざの靱帯を断裂し、もうスポーツなどは出来ない体になってしまった。
 私は相手の家に何回も謝りに行き、生長の家の本なども数年間送り続けた。しかし、どうしても自分の罪の意識が消える事は無かった。

 しかし、先日、ある機会で偶然、同じように膝の靱帯を断裂した他の女性に会って、話を聞く機会があったが、その人はこの前、膝の靱帯の手術をして、大した傷も残らず完治してスポーツなども自由に出来る様になったというのである。
 医学が進歩して10年位前から靱帯断裂の手術の仕方が変わり、現在は内視鏡を使った手術により、手術跡は殆ど残らずに、手術後もスポーツなどの激しい運動も可能な様になったのだそうである。
 私が事故を起こしたのは約12年前でその時は手術すればひどい傷跡が残り、手術してもまた断裂する可能性が高いので私の事故の相手の女性は手術しないと言っていたのである。
 でも、その後、数年で医学が進歩して膝の靱帯の断裂も完治する様になったとごく最近、私は知ったのだった。だから、私の事故の相手もおそらく進歩した医学の恩恵を受けて今は完治しているかも知れない。

 この様に自分の犯した罪は神により、癒され、消されるのである。それを本当に自覚すれば、具体的に現象的に自分の罪が消える時が来る。その事が分かれば、人間は素直に自分の犯した過ちを心から反省し、謝罪する事が出来ると思う。

堀 浩二
by koujihori | 2006-11-16 12:15 | 信仰 | Trackback | Comments(3)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/4193496
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by yukie sakai at 2006-11-19 23:50 x
堀先生
なんだか私ばかりコメントしています。すみません。私の友人のきょんちゃんもいつも来ているそうなのですが、ブログの内容が完璧なので感動してもコメントを気軽に書き込むべきでは無いと思うそうです。

今日も私にとってとてもありがたいブログなのでコメントさせて頂きます。<<罪が本来ナイという事は具体的に言ったらどういう事かと言ったら、自分が過去に犯した罪は神様が消して下さるという事である。神に全面的にお任せするのである。>>
主人を車で轢いて怪我させた方は苦しいだろうなあと、時々思います。許しの祈りをしていますが、実際に困っている主人をみるとかわいそうで辛い。でも被害者よりも加害者のほうが苦しいのですね「。神の栄光の現われん為なり」もっと本気で許そうと思います。
Commented by koujihori at 2006-11-20 09:45
幸江さん

 いつもコメント有り難うございます。私のブログはリンクを張っていないのでちょっととっつきにくい印象があるのかも知れません。でも、未だにやり方が分からないんです。説明書通りやっても出来ないんです。

 ところで私が色々文章を書くのは実は父の影響です。父は機械の設計開発者ですが、機械以外の事でも色々文章を書きます。インスピレーション的に何を書いたらいいか分かるそうです。だから私が文章を書く様になったのは父が出来るのなら自分も出来るはずだと思ったからです。
 そして、このブログを始める前から「悦びの記録」という文集を書いていてそれを宇治の榎本先生に毎月、お送りしていました。その後、宇治の先生の所にご挨拶に行かせて頂いた時、「自分の文章がもし、間違った事を書いて、それが他の人をミスリードする事になったらどうしようとたまに恐くなる事があります。」と申し上げたら、「人間神の子という事は自分が神であるという自覚の事だ。だから、自分の思う事は神が思う事だと自信を持ちなさい。」とご指導頂きました。
(続く)
 
Commented by koujihori at 2006-11-20 09:47
 それ以来、私は自分がこうありたい、こうある事が理想だと自分の中から出て来る事はそれがそのまま真理であるという自信を持てる様になりました。それまではこれは迷いじゃないか、これは自分だけの独りよがりではないかもっと神様の導きが受けられる様に心を清めなくてはならない、まだ、駄目だ、まだ潜在意識が清まっていないとうじうじしていたのです。

 ところでご主人の事、大変ですね。でも、事故の相手の方を本気で許そうとされる幸江さんは素晴らしいですね。加害者の人は被害者の人から本当に許されたら、魂が救われるのだと思います。それが幸江さんには出来る力があるのだと思います。

堀 浩二拝
<< 真の愛行とは(5) 真の愛行とは(4) >>