神様の導き

 私は普段、普通に生活していて、たまに神様の導きを感じる事がある。
 そもそも、この現象世界は真に実在する世界ではなく、我々の認識が映っているだけの世界であるから、我々は常に自分自身の心とか考え方というものを自分の周りの人や環境や境遇等に投影してそれを見ているのである。
 従って、我々は自分の心の状態、考え方というものを常に自分以外の人、それは家族であったり、同僚であったり、その他全ての自分に関わりを持つ人達、それらを通して、実際、具体的に経験する事が出来るのである。
 よって、他の人の自分に対する扱いとか姿を見て、自分自身の心を反省する事が出来るのである。それを昔からことわざで「人の振り見て我が振り直せ」と言うのであり、また生長の家の教えではそれを観世音菩薩の導きであると説くのである。
 観世音菩薩とは世の全ての人の心の思いを観じてそれをその通り実現して下さる菩薩様の事を言い、だから人間はその導きによって、自己の心を反省出来るのである。

 生長の家ではまた、「全て心に目あるものは見よ。心に耳あるものは聞け。全ての森羅万象は神様のお導きなのである。」という教えもある。それは一切の森羅万象は前述の様に神様が大切な事を我らに教えて下さっているのであるから、心に目あり、耳あるものはそれをよく見て、聞いて反省または学べと言うのである。

 私は自分の中に神の国があると自覚していて、内側から常に神様の導きがあるということを信じている。従って、私が真に欲する事は我が内の神が欲する事であり、だから、私は普段、頭でこれをしなくてはならない、これをしてはならないと規定しないで理屈抜きでこれが本当の事だ、これが内側からの神様の導きだという事を直感して、動いている。
 その感じは大抵、これをするのが悦びだ、嬉しい、心地よいという感じがする事を神様の導きだと思っており、それに反して、これをやるのは何か強迫的な感じ、いやな感じ、心地よくない感じがするものはこれはにせもののの実在しないことから来るものとしてそれを無視している。
 私の生涯の師、榎本恵吾先生は「神様の性質とは心地よい感じのするもの、懐かしい感じのするもの、温かい感じのするものである。」とお説き下さっていた。

 それで私は自分の希望する事をそのまま伸び伸びと行動、実現化しているのである。テニスもそうだし、英会話もそうである。そうして行くと自分の行っている事がそれぞれ有効に作用し合って、テニスで学んだ事が英会話に役立ったり、それがまた私の長年の悩み、不如意を解決する大きなヒントになったり、そして、またまたそれが私の信仰を大いに深化させ、また生長の家の集まりで、生長の家の講話をする時の良いヒントになったりするのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-12-07 09:25 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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