その時の事はその時の自分に任せる

 皆さんも良く経験される事も多いと思うが、ものごとというのは「案ずるより生むが易し」と言うことで事前にあれこれ心配したりする事があっても、実際、経験して見ると大した事が無かったという事が多い。また、誰かに何か変な事を言われ、その時、とっさに自分が相手に言った行動、取った行動があったとして、でも後から振り返ると「あの時、こう反論すれば良かった。ああ言い返してやれば良かったのに。」などと一人で考えてだんだんはらわたが煮えくり返って来たなんて事がある人もいるのではないかと思う。

 生長の家の教えには「取り越し苦労する無かれ」というものがあるが、この「取り越し苦労」というのは、現在ではなくて、将来の事を心配する心である。人間は「今」に生きておれば、「取り越し苦労」する事も無いのである。だから、生長の家には「今を全力で生きるべし」という教えもある。
 
 我々は将来の事や過去の事に心を引っ掛からせるとろくな事を考えないのである。我々の叡智は「今」にしか働き得ないのであり、我々の力は「今」にしか行使出来ないのである。 今を生きないで過去とか将来に引っ掛かるのは我(が)の心であり、迷いであり、そんな所から「取り越し苦労」や「後悔」というものが出て来るのである。
 そして、これから悪くなりはしないかとかあの時、ああすれば良かったのではないかとかあれこれ悩むのである。それは我々の本当の心が動いているのではなく、にせものの我(が)の心が空回りしているのである。

 現象の奥に今、このままで完全円満な世界がある。それが本当の世界であり、うわべの現象世界は自分の認識が単に映っているだけのにせものの世界である。
 そして、その完全円満の実相世界に住んでいるのはやはり完全円満の神の子である人間ばかりである。従って、現象の奥の本当の自分は今、このままで完全円満、無限力、無限叡智なる存在である。
 だから、我々は生活して行くのに将来どうしたらいいかとあれこれ頭を悩ますのではなく、今の自分自身の判断に全面的に任せれば良いのである。「いや、私は実相は神の子かも知れないが、現象の私、現象の心、潜在意識はまだ清まり切っていないから、私の判断は信用なりません。」なんて言ってはならない。我々は現象はどうあろうともたった今、神である。清まり切っていない潜在意識は本来ナイのである。そしてそれは実に今の事である。今、我々は神であり、今、現象は、そして肉体は、そして潜在意識はナイのである。
 生長の家創始者、谷口雅春先生は現象は貧しくとも今、本当の自分は無限供給が与えられているとお悟りになって、初めて生長の家をお始めになる事が出来たのである。雅春先生が自分の実相は神の子、無限力だが、現象はまだ不健康で貧しいと思って、それに引っ掛かっていたら、永久に生長の家はこの世界に出現する事は無かったのである。

 真にも今、我々は神の子であり、無限供給であり、無限智である。従って、全ての生活万般において、我々がどうすべきか、どう判断すべきかという事は全くもって、「今」その時の自分の判断に全面的に信頼して、進めていけば良いのである。そうして行けば、我々がどんなに難局を迎え様とも、それを切り開く絶妙な智恵が我々の中から浮かび上がってそれを乗り切る事が出来るのである。
 それを「あの時、こうすれば良かった」とか「将来、どうしようか。」なんて今を生きないで頭で悩んでいると恐怖心が出て来たりして、間違った判断をして、手痛い失敗をしてしまうのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-12-15 09:55 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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