人間の力などは大したものではない

 世の中にはよく、宗教は弱い人がやるんだ、自分だけの力では生きられないで、他のすがる何かに頼らなければ、生きられない弱い人がやるんだという事を言う人がいる。

 そして、宗教というものは一度入ると抜けられないイメージがあり、そんなこんなで宗教というものを毛嫌いする傾向があるようである。何を隠そう、私もそうであった。だから、私は昔、自宅に宗教の勧誘の人なんかが来るとにべもなく冷たく断ったものである。

 しかし、よくよく考えてみると本当の信仰というのは決して、弱い人間がやるのではない。却って無限に強い人間がやるのである。ただ、自分は力がある、自分は頭がいい、自分には健康上も、経済上も何も問題がないと思っている人は却って、真の信仰に目覚める事は難しい。
 この事をキリストは「富める者が神の国に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しい。」と仰ったのである。自分は肉体であって、その肉体人間として、適当に能力もあるし、健康も問題無いし、その他家庭生活、社会生活も大した問題なく、過ごせていれば、それでいいと満足して、真の信仰に振り向こうという気にならないものである。

 そんな人が宗教している人を見て、宗教に頼るのなんて、弱い人間のやる事だと言うのだと思う。しかし、実は人間の力など大したものではないのである。人間は近年、慢心して、クローン技術なども考えだし、生命さえも自由に操作出来ると勘違いしている。そして、人間の欲望と金儲けの為なら地球環境を自由に自分達の都合のいいように破壊してもいいと思っている。しかし、そんなものではないのである。人間は自然環境の一部であり、生態系の一部に過ぎない、そして、いくらクローン技術だなんだと言った所でそれは本来の自然の生命体を勝手にいたずらしているだけの事で、人間の力で生命体を本当に作り出すなんて事は出来ないのである。
 この様に慢心して、自然を破壊し、生命を冒涜すれば、自然の一部である人間も生存する事は出来ないのである。

 繰り返して言うが、人間の力など所詮、大したものではない。人間は自分の力では絶対に一瞬たりとも生きる事が出来ないのである。人間を生かしているのは大宇宙を完全円満な形で内側から生かしている神である。
 我々は如何なる努力をしても、念力を使っても自分の力で生まれて来る事は出来なかったのである。自分の力で努力して、肺臓や心臓を動かし、夜眠ること、食事が当たり前に食べられる事等々の当たり前の生理作用は出来ないのである。

 我々は内側から完全円満なる神にただ生かされているのである。そして、その完全円満なる神は全宇宙に充ち満ちていて、無限の叡智そのものであるから、我々一人一人はおろか、全宇宙の全ての生きとし、生けるものを調和ある姿で生かしておられるのである。それが宇宙の真の姿である。それを生長の家では実相世界と呼んでいる。
 この現象世界は我々の認識が単に映っているだけの世界であるから真に存在する世界ではない。本当の世界の影の様なものである。我々は正しい信仰を持って、真に存在する完全円満なる実相世界、実相の大宇宙を悟れば、現象の世界にもその通り、調和した世界が出て来る。その真理を悟る事が真の信仰を持つという事である。
 従って、この真理を悟ったものは大宇宙を自分のものとする事が出来るのである。だから真の信仰を持ったものほど、強いものは無いと言えるのである。

 現在の自分に絶望し、現象的ににっちもさっちも行かなくなった人は肉体人間の力に見切りをつけ、真の信仰に入るチャンスにある人であるから、こういう人の方が神に近いのである。それをキリストは「悦べ、悲しめる者よ。神の国は汝のものなり。」と言われたのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-12-22 14:53 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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