次郎のこと

 今朝、私の犬の次郎が亡くなった。15歳と10ケ月で、老衰である。次郎のことは以前の文章「犬に教えられたこと」で書いたから覚えている読者もおられると思う。
 そこでも書いたがこの次郎は約2ケ月ほど前から後ろ足に力が無くなり、家の近くを30分程、散歩させても後半は座り込んでしまうようになってしまった。そして、日に日に弱って行き、先月末位には失禁もするようになり、下の世話もしなければならなくなった。獣医にも連れて行き、注射や薬をもらって、ちょっと持ち直したが、連休明けの今月6日位には殆ど歩行も出来なくなってしまった。それでも食欲だけはあり、このまま寝たきりでも下の世話をしながらしばらく生きながらえるかと思ったがその期待も空しく、昨日から何も食べなくなり今朝ついに息を引き取った。

 私はこの犬には本当に感謝しているのである。何故なら私に人間としての当たり前の心を取り戻させてくれたからである。以前の記事にも書いたが、今回弱ってきた犬の世話をするようになるまでの私は自分の能力向上をむさぼる一種の餓鬼の様な存在であったのである。そう、つい1ケ月くらい前までは。
 しかし、犬というものが如何に優しい感情細やかな生き物であるかということを偶然見たテレビ番組で知らされた私は自分の犬ももっと心を込めて、いたわってやらなくてはならないと気が付き、犬が亡くなるまで自分としては最後まで愛情を注いで世話をして上げることが出来たと思う。
 
 私はこの犬が足が弱ってきた時、それを丁寧に面倒見てやった事で今、目の前のもの、ことに心を込めるということを教えられ、そして犬の下の世話を毎日してやることで生き物に対して本当に愛情を注ぐことを教えられ、そして、実は取り越し苦労しないということが大切であるということも今回の事で教わったのである。
 今、目の前のことに気が行かない、愛情を込めない、何かと取り越し苦労するという性質は私の生来持っていたどうしようもない人格上の欠点であったのである。しかし、この犬はわずか2ケ月という短期間に私にこれらのことに気が付かせ、人間として大事なことは何かということを教えてくれたのである。
 そういう意味で私はこの犬には本当に感謝しなくてはならないと思っていた。しかし、今朝、犬が息を引き取った後、ぼんやりとしていてはっと気が付いたのであるがこれは正に神様が犬を通して私に大事なことを教えてくれたのではないかと思うのである。
 生長の家の本に出てくる神の言葉とされる言葉でこんなのがある。それは「いと小さきものに施したことはそれは私(神)に施したのである。」と。
 神は遙か遠く彼方におられるのではなく、吾々の周囲のいと小さきものとしてそこに現れているのである。

 私は今日の午後、父、母、兄、兄嫁と一緒に犬の亡骸を家の裏山に穴を掘って、葬った。20kgほどの体重の犬の亡骸を布でくるみ、裏山まで犬を抱きかかえながら連れて行き、そこで穴を掘って、葬ったのだが、最後に犬を我が手に抱きかかえてやれたことは本望であった。

 最後になるが最後まで私とよく協力して次郎の面倒を見てくれた息子、周太郎に感謝したい。

堀 浩二
by koujihori | 2005-05-14 17:34 | Trackback | Comments(0)
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