そのままでよい(6)

 私はある人と話していて、私が何か「僕はこう思う。」と言うと、その人は先ず百パーセントと言って良いほど「いや、そうじゃない。これこれこうだ。」と反論するので、内心、嫌気がさしていた。

 しかし、ある日、私は他の人と会話していて、自分も相手が何か意見を言った時に「いや、」だの「だけど」だの盛んに言い返している自分を発見した。それで私は「ああ、これは私にそういう相手の話を頭ごなしに否定する所があるから、相手がそういう姿で現れて、私に私の至らない所を教えてくれているのだ。」と思った。
 それでその事を私の家で毎月、開催している誌友会(生長の家の信徒が生長の家の地方講師の話を聞いて、その後、座談会をする会)の座談会でその話をしようとした。そうしたら、話の途中で私はその時の派遣講師に「そういう相手が見えているのはあなたにそういう人の話を否定する性質があるからだ」と指導された。私はその時、内心「そんな事は分かっている。それをこれから私は発表しようとしているのに余計な事を言うな。」と思い、その講師が話している最中にそれを遮って、私の言いたい事を全部喋った。そうしたら、その講師は「人間というのは耳は二つあるが、口は一つしかついていない。という事は本当の話し上手というのは二つ聞いて、自分が喋るのは一つでいい。」と仰った。
 私はまた、内心「そんな事は分かっている」と思ったが、もちろん、口には出さなかった。

 ところで私も生長の家の地方講師であるから、月に一度、県下の色々な誌友会に出講して、講話をする。先日の日曜日もある相愛会の誌友会に出講した。私は講話は比較的自信がある方なので、するべき準備をして、その日も自信を持って、講話を始めた。今月の講話のテーマは「地球温暖化の実態に気付こう」という事で話しを始めたが、どうも誌友の反応が今一つに感じた。それで私は感動的な話をしよう、誌友を感動させようとこれでもか、これでもかと思って、いい話をしようとした。しかし、何故か自分の話が空回りしている感じがして、誌友も感動している感じがしないのである。

 我々は今、神の子であるから、今、無限力である。だから、頑張らなくても今、神の力において、その場に適した良い話をする事も出来れば、その他、必要な力と知恵を発揮出来る。
 それを妨げているのは自分自身である。以前も書いたが、その自分で自分を縛る心とは「良くしよう、うまくやろう」という心であり、それは会話においても「私がいい話しをしよう、私が相手を納得させよう」と頑張る心である。
 私は今、そのままで完全円満である自分の実相に任せ切れず、オレがうまくやろう、自分がいい話しをしようと頑張っていたのだった。それを指摘して下さったのが先に書いた、私の家の誌友会に出講して来た地方講師の先生であったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-06-07 18:03 | 信仰 | Trackback | Comments(6)
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Commented by erica at 2007-06-07 23:19 x
神の子の無限力の発揮を妨げているのは自分自身である・・・ はい、はい、その通りです。
約2ヶ月前に、「自分で自分を縛る心」に気づき、それ以降、自分の心と「神の子」の心が内心で争っているような経験をし、これまではなかった体調崩れも相次いでいます。崩れてきたのは体調でも私でもなく、これまで握ってきた我(が)であることを信じて、いつもより頻繁に聖典の読書を続けています。今は、それまで頭で理解していたことが少しずつ心で実感できるようになって来ました。 が・・・ 神に全託できることは、私の切なるお願いです。
Commented by mario at 2007-06-08 10:09 x
いつも面白い話を読ませてもらっています。今月の講話のテーマを佛教として話したのですが、最初の誌友会で皆さんが難しいというような顔をするのです。佛教ならキリスト教よりよく知っていると思ったのですが、次の誌友会までに話をもっとわかりやすく変えました。今日は別の誌友会でしたので、数時間も掛けて内容をわかりやすく変更して話したのですが、まだ少し難しかったようです。土曜日にはさらに別の誌友会ですので、その時のために明日もう一度時間を掛けてわかりやすく楽しい話に変えなければなりません。こんなことは珍しいのですが、それでも自分の言いたいことは変えないけれども、聞く人にわかりやすくするために、言葉を変え、体験談を変え、譬喩を変えました。私の場合は聞く人が先生です。
Commented by koujihori at 2007-06-08 10:43
Ericaさん

 いつもコメント有り難うございます。19日の英語誌友会は是非伺います。
 〉約2ヶ月前に、「自分で自分を縛る心」に気づき、それ以降、自分の心と「神の子」の心が内心で争っているような経験をし、これまではなかった体調崩れも相次いでいます。

 素晴らしいですね。僕も同じようですよ。もしかしたら、僕とericaさんに同時に同じ変化が起きているのかも。
 体調崩れがどのようなものか分かりませんが、それは絶対良い事だと思います。焦らずに神様に全託下さい。自分の心と神の心が争っているという事ですが、自分の心はその内消えて行きますからご安心を。

〉が・・・ 神に全託できることは、私の切なるお願いです。

 その切なる願いは必ず叶えられます。神様が全部叶えてくれるのです。
Commented by koujihori at 2007-06-08 10:58
mario様

 コメント有り難うございます。
 6月4日付けの記事「無我ということ(2)」の冒頭に書いた、「私が学生時代に生長の家の仲間からお前は取り越し苦労の仕方が・・・」というその仲間とはmarioさんの事です。憶えてますか?あの当時は随分、きつい事をmarioさんには度々言われました。(笑)でも、それがことごとく当たっていたのを後から知ることが出来ました。お陰で本当に為になりました。

 〉私の場合は聞く人が先生です。

本当にそうですよね。私もますます頑張ります。
 
Commented by mario at 2007-06-09 01:00 x
>・・・というその仲間とはmarioさんの事です。憶えてますか?
>あの当時は随分、きつい事をmarioさんには度々言われました。(笑)

すみませんでした。そんなひどいことを私はいったのでしょうか? 全然覚えていません。6月4日の文章を読んだとき、誰だろう、あいつだろうか、こいつだろうか、と詮索しましたが、まさか自分だとは思っても見ませんでした。その当時は口が悪かったのでしょうか・・・。今でも悪い、とどこからか聞こえてきそうです。本当に申し訳ございませんでした。悪気があって言ったわけではないことだけはご承知いただけると思うのですが、あらために全然、嫌みでも、意地悪でもなんでもありません。私は思ったことを口にすぐに出し過ぎたのかも知れないですね。今になって、そういわれると当時のことを思い出しつつ、深く反省する次第です。ごめんなさい。
Commented by koujihori at 2007-06-09 09:28
mario様

 こちらこそすいません。軽い気持ちで申し上げたのですが、却って気を遣わせてしまって。でも、当時、marioさんに言われた事が後の僕に取って、大いに為になったのです。だから、今では感謝こそすれ、恨みになんて全然思っていません。

 marioさんは当時の豊島地区青年会でも特別な方でした。変な言い方ですが血統が違うなと思ってました。ついでに申し上げると、marioさんは当時の迷いの固まりであった私にかなり鋭い指摘をして下さいまして、私の運命まで予言していました。すごい人ですよね。
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