実相を保つ?

 生長の家の33ある神示に「久遠生命の神示」というのがある。そこには「吾が臨れるは物のためではない。生命のためである。肉のためではない。霊のためである。これを覚るものは少ない。物の消滅に心を捉えられ、物が殖えたときに信仰を高め、物が減ったときに信仰を失い、身体が健康になったときに神を讃え、家族の誰かに病気が起こったと云っては信仰を失うが如きは神を信じているのではなくて物を信じているのである。物は結局、移り変わるものであるから、物の御利益の上に建てられた信仰はものの移り変わりによって壊れるのである。」とある。

 私は毎週土曜日の朝7時から8時30分まで近所のテニスコートでテニス仲間と早朝テニスをしている。毎回4~5人の仲間が集まって、ダブルスのゲームをやるのだが、その中で非常にマナーの悪い人物がいるのである。
 彼は挨拶は先ずしないし、ゲーム前の練習の時も球が少しでもそれるとそれを追わずに一歩も動こうともしない。そして、ダブルスでパートナーになるとこちらがミスショットをすると露骨に嫌な態度をするのである。その他、多々無礼な振る舞いがあり、以前も仲間内の年長者の人にちょっと注意されたが改まらず、私も彼と練習をしたり、ダブルスのパートナーになるのは嫌で仕方が無かった。

 さて、この間、こんな事があった。練習が済んで、最初のゲームをしようとした時、私はペットボトル入りのスポーツドリンクをキャップを開けて、飲んだ。そうしたら少し甘い味のついているはずのそのドリンクが全く味がしなかったので私はうっかり、他の人のスポーツドリンクを誤って、ラッパ飲みで少し飲んでしまった事に気がついた。
 殆どそっくりのペットボトル入りスポーツドリンクが同じベンチに置かれていたから気がつかなかったのである。私は「しまった。間違えた。申し訳ない。」と大きな声でその誰だか分からないペットボトルの持ち主に言った。そうしたら、その相手は例のマナーの悪い彼であったのである。男同士の仲間なんて、ジュースの回しのみなんて良くやったし、こちらも謝っているのだから、当然、そのままそのペットボトルを彼は飲むのかと思ったら、「ふざけんじゃねえ」と言いながら、「こんなものはもう飲めない。お前にくれてやる」と言わんばかりにそのペットボトルを私のテニスバッグに放り投げ、黙って新しいスポーツドリンクを買いに行った。

 私は一瞬何が起こったか分からず唖然としてしまった。そしてその日の第一試合はじゃんけんでその彼とダブルスを組んだのだが、私は唖然とした状態から、段々我に返ってきて、それと同時にすさまじい怒りが湧き上がってきた。そして、私はその怒りを抑えられず、その試合は全くやる気がせず、形だけ済ませて、試合が終わった直後、その相手に「お前、あのペットボトルは自分で持って帰れ!」と怒鳴りつけた。

 そして、今まで我慢していたこちらの思いをそれを機会に一気に相手にぶつけ、如何にその相手がテニスマナーが悪いか、それが如何に他の人に不快感を与えるかという事をストレートにまくしたてたのである。その相手は一言二言反論していたが、怒りのおさまらない私は次の試合は抜け、他の人がゲームをしているのをしばらく、横で見ていた。もうその日は帰ろうかとも思ったが、とにかく最後まで続けた。彼とはまた、最後の試合でパートナーとなったが、もうその頃は私も幾分、気分が静まり、試合もする事が出来たが、今度はその彼が私に気を遣ったか萎縮したのか、考えられないミスをしていた。

 それが土曜日の朝の事であったが、私は家に帰ったらすぐ家内にその事を言い、その相手の非難をまくし立てた。そうするとまた、その時の記憶が蘇り、その日は一日中不愉快な気分が抜けず、翌朝も目覚めが悪かった。

 私は人の光明面を見るという事が大事であると自覚し、それを日頃の訓練で少しずつやれて来て、かつ神様に全託するという訓練もして来て、大安心の状態を構築しつつあったのにその事で一挙に自分が築いて来たものが瓦解してしまった。ああ、また一から自分の心を整えなくてはならないなと思い、構築するのは時間が掛かるが、崩れるのは一瞬だなと思い、情けないやら、自分は転落しただのと思って少し落ち込んだのである。

 しかし、それは間違いである。現象とか心など所詮そんなものなのである。私は現象とか現象の自分の心をいつの間にか本当の自分、本当の自分の心と思っていたのだった。
 気をつけて、徐々に良くするのが実相ではない。本当の自分即ち実相をぶれないように注意深く保つのでもない。
 始めから完全円満の実相があり、それは人事処に応じて、自由自在の働きをするのである。それは無限力を発揮する事もあれば、駄目な時もある。現象の心も同様である。だから、そんな表れの波動の現象にとらわれてはならないのである。実相が現象に出て来て、それで悦ぶのではなく、このままで完全円満な実相を悦ぶのである。現象と心はその時々によって、ゆらゆらと揺れるものである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-06-11 10:01 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(4)
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Tracked from シャネル バッグ at 2007-06-13 12:09
タイトル : シャネル バッグ
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Commented by erica at 2007-06-11 12:08 x
本話題を読みながら、良くある・・・と笑いながら、楽しく読みました。
外国語をしゃべろうとすると、言いたいことは自分で分かっているが、文章は完璧にできないことが多いです。だが、文書の失敗を無視して、伝えようとするといつかはその外国語が上手になる。神の表現も同様ですね。心の奥には神であることを知り、それを表現しようとするが、時には失敗する。だが、それは単なる失敗ではなく、表現しようとしている吾が内の神をより正確に表現できるための道である。
外国語で失敗するのは伝えたいことがあるから。人生でも、失敗するのは表現したい神様、実相が吾が内に宿っているからですね。
Commented by koujihori at 2007-06-11 13:30
ericaさん

 ericaさんのガッツと行動力の秘密が分かりました。素晴らしいですよね。失敗を恐れず、どんどんやって行く事が表現力向上につながる。本当にそうですよね。僕は失敗を恐れて、完璧にやらなくてはならないというこだわりが強かったです。ericaさんを見習ってどんどんチャレンジします。

 ところで昨日、英検一級の一次試験でした。もうかれこれ6回目の挑戦です。そのレベルの高さと言ったら、本当に舌を巻いてしまいます。でも、自分でも少しずつ、以前より力がついているのを実感し、その点は勇気を与えられます。
 自分としてはかなりハイレベルだと思われる内容の英語の文章をそれこそ、さっと読めるスピードがなくてはならず、これはどういう事だろうかとあれこれ頭を悩ましている様ではとても、時間が間に合いません。その事はある程度、分かっていたので日頃、それなりの訓練はしていたのですが、中々その訓練ももたもたしたものでした。でも昨日の様に実際、試験を受けて、限られた時間の中でこれだけ読んで理解しなくてはならない状況に追い込まれると、普段気づきもしない力が出ますね。こうした経験を重ねる事こそが語学上達の道だと思いました。
Commented by erica at 2007-06-11 22:45 x
ほめ言葉、有り難うございます。完璧にやろうとすることも良いことだと思いますよ。
英検一級、すごいですね!私もいつかやらなければいけないな~
試験って本当に普段は使わない力が出ますね。私も、博士課程入試を受けたとき、外国人としての入試を出願したが、常に修士課程を日本の大学で終えていたため、外国人として認められなく、普通の日本人と同じような試験を受けました。英語レベルを計る試験だったが、私には日本語レベルを計るようなものでした。その試験は、2つの英文 (一つは韓国の教育制度について、もう一つは水の特性と生態系へ役割について)を読んで、その場で翻訳をすることでした。一つ目は楽だったが、二つめは英文を理解しても、なかなか日本語での言葉が出てこなかったです。どうしても分からないときは英語でその言葉を書き、カッコ内に日本語で遠まわしした説明を書いていた。採点した人は大笑いしたでしょう。
Commented by koujihori at 2007-06-12 09:07
Ericaさん

〉英検一級、すごいですね!

それは合格したら言って下さい。

〉英語レベルを計る試験だったが、私には日本語レベルを計るようなものでした。

大変でしたね。でもそれもEricaさんだからこそ、与えられた神様からの練習台ですね。
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