悪に怒るということ

 私の師である榎本恵吾先生にお聞きした事であるが、生長の家創始者谷口雅春先生が生前、まだお若い頃、生長の家の幹部達が先生を中心に会議をしていた時の事である。その時は暑い夏の午後の事であったので先生の付き人の人がその会場に扇風機を用意したのであるが、それの首振り装置が、壊れていて、満足に機能しなかったのである。そうしたら先生はその付き人に向かって、「きちんと調整しなきゃいかんじゃないか!」と周囲が度肝を抜かれる程の怒声を浴びせたのである。
 それはお坊さんが座禅を組んでいる人の雑念を一喝する時に放つ様な「喝!」なんて爽やかなものではなく、憎しみに満ちた怒声とも取れそうなものだったそうである。しかし、その数分後には先生はこの付き人とまるで何事もなかったかの様に楽しく談笑していたそうである。

 時に従い、相手に従い、相手の間違った行動を一喝する事はある。しかし、それは相手の善性を信じる我が内の神の心からその場に応じて、相手に厳しい言葉が出て来るのであり、心の底から相手を悪人と見て、非難するのではないのである。だから、カアーっと相手を怒鳴りつけたりする事があっても、いつまでもそれを引きずる事は無いのである。
 
 あいつは悪い奴だと認める事はこの世に神が悪や不完全をお造りになった事を認める事になるのである。神は悪をお造りにならず、善のみお造りになっておられるから、悪人は存在しないのである。彼は善人であり、完全円満であり、例え現象的に間違った悪い事をしていてもその内なる善性が日々、自ずと出て来る過程であるのである。それを信ずれば、相手をいつまでも心底、責める気持ちは無くなるはずである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-07-03 13:36 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented by 三谷文人 at 2007-07-04 06:42 x
 次の仏教のお話は、皆さんもよくご存知かも知れませんが、一応書いてみます。

 『ある修行中のお坊さんとその弟子が旅の途中に川岸に辿り着いた。その川は歩いて渡れるほどの浅い川だったが、一人の着物姿の女性が渡れずに立ち往生していた。
 そこで、そのお坊さんは親切心からその女性を背中におぶって、向こう岸に渡ったのであった。そしてその女性と別れて、そのまま旅を続けていると、弟子がさっきからずっと怪訝な表情をしている。
 そこで、その理由を尋ねてみると、「和尚様は、日頃から修行中は女性に心を動かしてはいけないと言われるのに、先程は若い女性を背中におぶったではありませんか。これはいけないことではありませんか」と言う。それを聞いた、このお坊さんは弟子にこう言って笑った。「なんだ、お前はまだあの女をおぶっておったのか?わしはとっくの昔に降ろして、もう忘れておったわい」。』

 女性をおぶっていたのは弟子の方だった、というのが面白いですね。他人の「悪」を見て、それをいつまでも摑んで離そうとしない人の例えを弟子の姿に見ることができます。
 「悪」を摑まない心境というのは、絶対善なる神性の自覚から来るのですね。
Commented by koujihori at 2007-07-04 13:00
僕もこの話しは知っています。面白いですよね。「女をする」という煩悩や悪を握る事が淫らであり、煩悩であるという事は面白いと思います。
 女性とつきあったり、話をしたりするのも、それが淫らな事だと考えれば、淫らだし、相手を神の子と思ってつきあえば、外形上は同じ事でも淫らでも悪でも何でもないんだと思います。
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