駐車違反

  先日のある夜、ある会合に出掛けた時、車で行ったのであるが、そこの駐車場が満杯で車を停める事が出来なかったのである。そこで仕方なく、近所のマンションの前の道に路上駐車した。その会合は2時間位掛かるので路上駐車をしたまま2時間も放置しなくてはならなかった。 私は路上駐車などちょっと前は当たり前にしていたのだが、去年から路上駐車の取り締まりが厳しくなり、駐車違反をしている所を警察やその他警察に委託された民間業者に見つかれば、有無を言わさずすぐに切符を切られるのである。だから、私もめったに路上駐車しないのだが、その夜はどうしても近くに駐車場が無く、仕方なく路上駐車した。でも、私も本当に迷惑になるような所に停めたりはしない。私が駐車した道はかなり広く、車幅4台分以上の幅のある道路であった。
 しかし、その会合中、私はもしかしたら摘発されるのではないかと気が気でなかった。しかし、心配すると却って、それが実現するという事を知っていたから、心配すまいと神様に全託する心境になる事を思い出した。

 私は駐車違反を摘発されるという悪を思い描かなければ摘発される心配は無い、自分は絶対に大丈夫だと神様に任せ切れば良いのだと思い、もし、自分の車が警察に摘発されて、札が貼られていれば、私の信仰に揺らぎがあるからだと思って、会合が終わった後、恐る恐る車を停めていた所に戻ったが幸いな事に私の車は摘発されていなかった。

 心配するという事は神に任せられないという事である。神に任せられないという事は悪があるという事を心に描くという事であり、そうすれば、その心の通り、不幸や不都合が出て来る。
 神に全託すれば、何も心配は無い。心配しなければ、その通りの大調和の世界が出て来る。従って、政治がどうであろうと、世界情勢がどうであろうと、国が戦争していようと真理さえ、握っていれば大丈夫なのである。
(だからと言って、これは決して駐車違反を勧めているのではありません)

堀 浩二
by koujihori | 2007-07-11 12:44 | 信仰 | Trackback | Comments(4)
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Commented by 三谷文人 at 2007-07-12 22:47 x
 心配を放ち去って、神様に全託できる、というのは達人の境地ですね。

 確かに、この世の不幸や不都合というのは、感覚人間の勝手気ままな妄想の産物ですね。心配しなくなるだけで、どれだけ平和で調和に満ちた生活を取り戻すことが出来るのでしょう。

 神様に全託すれば、例え世界情勢が悪化しても、戦争が起きても、心の中に無いものは決して自分に近寄らないから、絶対安心の境地ですね。 
Commented by koujihori at 2007-07-12 23:05
三谷さん

 有り難うございます。実相独在の信仰は吾々の中に誰にもあり、吾々の本体は神であり、真理であり、悟りそのものであります。それが、自ずと発現して来ますがその道程がこの吾々の人生学校であります。

 自ずと実相が発現しますが、それは吾々は何もしないでぼーっとしているという事ではなく、自分の意志として努力しようとか行動しようとかと言った意識的な動きとして出てきます。でもそれは我(が)の働きではなく、我が内の神の自ずからなる働きであります。

 全託の信仰は我が内の神が自ずと出てくる事により自ずと成就しますが、それは同時に吾々の意識的なおのれを捨てて、放つという訓練という形でも出てきます。
Commented by Y.N at 2007-07-24 08:41 x
駐車違反を摘発されるというのは悪でしょうか?私は摘発されないほうが不幸だと思います。
交通ルールを守らない人を神様はお喜びになるでしょうか?というか、神様レベルではないような気がします。
Commented by koujihori at 2007-07-24 12:30
Y.N様

 駐車違反を摘発された方が良い場合もあります。でも今回のケースは摘発されないという事が善であると私は判断しています。法律は原則的に守るべきですが、私はそれを絶対のものとも思っていません。世の中には合法的に悪い事をする人は沢山います。それはこの世の法律イコール神の心ではないからです。

 守るべき本当の基準は自分の中の神であると思っています。
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