実相を観るということ

 生長の家では他の人の実相を観なさいと教えられる。表面では悪い姿、迷った姿に見えていてもその奥には迷いもない、善なるその人の完全円満なる姿があるから、表面の悪い姿、現象に目を閉じて、その奥にある神の子なる実相を拝むべしと言うのである。そうすればその素晴らしさが現象的にも出て来ますよと生長の家では説いている。

 それは正にその通りであるが、そもそも相手の実相を拝むという事はその人間は現象的にはその人の真理の学びや悟りが進んでいなくて、まだ迷っていて、悪いのをその奥の実相は完全円満であるから、それをこちらが拝んでやるという事ではないのである。ましてや悪い相手をこちらの祈りによって良くしてやるという事でもない。
 
 その人間の実相を観るとはその人の過去の駄目な悪い部分、至らない部分もその人が悪いからそうしたのではなくてやむにやまれぬ事情があったからそうしたという事が分かり、その人は一度もひどい悪い人間では無かったと分かる事である。それが分かった時、真の意味で相手に感謝が出来る。親にも感謝が出来るのである。
 要するにその人が最初から一度も不完全であった事は無かったのであって、それをこちらの観が歪んでいた為に元々完全円満であった相手を不完全とこちらが勝手に勘違いしていただけである。

 即ち学びが進んでいないその人の現象はナイと一刀両断する事である。その人は未だかつて不完全であった事、愛の無かった事など一度も無い、始めの始めから完全円満であり、愛深かったのであるという事が具体的に分かる事がその人の実相を拝むという事である。相手が不完全と見えていたのは相手が不完全だったからではない。こちらの観が歪んで不完全に映っていただけである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-07-23 11:30 | 信仰 | Trackback | Comments(8)
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Commented by Y.N at 2007-07-24 08:30 x
>表面の悪い姿、現象に目を閉じて、その奥にある神の子なる実相を拝むべし
悪はもともとないのに、どうして目を閉じるのか。目をあいて堂々としていてもかまわないのではないか。拝むということは、その人を拝むのではなくて、自分を拝むのではないでしょうか。
Commented by Y.N at 2007-07-24 08:30 x
>そうすればその素晴らしさが現象的にも出て来ますよと生長の家では説いている。
生長の家の教えがこのようなものであるならば、私は生長の家には入らなかったかも知れません。
Commented by Y.N at 2007-07-24 08:31 x
>即ち学びが進んでいないその人の現象は
これはその人を見下げていないでしょうか。
言い換えれば、堀様がその人より学びが進んでいることになります。
進んでいる遅れているとか、勝っている劣っているとかいう言葉は
今まで生長の家の教えの中で聞いたことがなかったので、堀様の文章はとても後味が悪いです。

感じたままを書いてごめんなさい。
Commented by koujihori at 2007-07-24 12:24
YN様

 コメント有り難うございます。ご指摘されている事は私の言いたい事の比喩とか例えに使った部分を問題にされている様ですね。

 私の申し上げたい事は他の人の始めから完全円満の生命の実相を拝むという事が尊いという事であって、こちらの心の力で悪い相手を良くするのではなくて相手は元々良いのにそれに対して目(心の目です)を閉じていたこちらに問題があると申し上げているのです。
Commented by erica at 2007-07-24 21:23 x
>即ち学びが進んでいないその人の現象はナイと一刀両断する事である。(...) こちらの観が歪んで不完全に映っていただけである。

自分の経験と生長の家の真理を照らし合わせると、悪い相手は存在しないことがよく理解できます。悪い姿を見せてくれた全ての相手はただ、私の「観が歪んでいた」ことを見せてくれていたのです。言い換えると、悪い姿を見せてくれた相手は、ますます私を幸せの道へ導いていてくれた神の救いであったのです。
実相を観るという御教えは素晴らしいですね。
Commented by koujihori at 2007-07-25 08:53
ericaさん

 本当に暖かいお言葉有り難うございます。僕も今まで色々な相手から憤りを感じる様な扱いを受けた事がありますが、その時、その人がそうしてくれた事が自分を非常に尊い自覚に導いてくれたという事が多いです。

 そういう意味で僕はそうした人達に感謝すらこそすれ、恨みに思っていません。(この3カ月位、僕の虫の居所が悪かったのかそういう運命だったのかよく分かりませんがそういう経験を2~3回しました。でも、現在はお陰様でそれらの人達との仲は修復されたんですよ。それは神様が取り持ってくれたとしか言いようが無いです。)
Commented by sato at 2007-07-25 18:29 x
礼拝
その通りと思います。

不完全なのは自分自身であった、と気付くのに40年かかるんですね。
他を見て完全でないのは自分自身の目が実相の目でないだけの話です。
自分自身が完全円満なる実相を現さない限り、何を見ても完全円満には見えないと言うことです。

「迷い」「悪」もこの世に存在すらしていません。
迷っているのは自分自身です。

自分自身が「神の子」であることを知らないことが迷いです。
自分自身が「神の子」であることが解ったら感謝しかないんですよ。
「ありがとう」以外ないんですね。

再拝
Commented by koujihori at 2007-07-25 22:10
sato様

 コメント有り難うございました。生長の家の教えは素晴らしいですね。これからも宜しくお願いいたします。
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