罪の意識

 生長の家では罪本来無しと説く。しかし、神性の開発されて来ている人ほど罪の意識が強いのである。特に宗教など真剣にやっている人は罪の意識が強く、キリスト教の人などはそれが顕著の様である。罪の意識があれば、その人は苦しく、そして自分の運命は自分で作るからそういう人は罪あるものは罰せられるべしと勝手に自己処罰して、自己を悲惨な運命に導く。

 悪い奴ほど良く眠ると言われるがその人の善なる神性がずっと奥深く埋もれている人は罪の意識など殆ど感じないから悪い事、残酷な事をやって全く平気な訳である。生長の家の聖典「生命の実相」には「無限の善であるその人の生命の実相が迷いと言う心のごもくたがまだうずたかく積まれているその奥に深く埋もれている場合は罪の意識というものは全く芽生えないが、その心のごもくた、すなわち迷いが段々少なくなってきて、その人の神の子の自覚が段々表面に出て来るとその神の子の自覚即ち生命の実相、神性は無限の光であるから、その光の熱でその人の心のごもくたに多少、火が付く。そうすると不完全燃焼の様にもうもうと煙を上げるがそれが本人に取っては苦しくて仕方が無い。それがいわゆる罪の意識である。」と説かれている。 即ち罪の意識が芽生えてきたというのは悪い事ではなく、その人の奥の光り輝く生命の実相、それは罪無し、完全円満という自覚、悟りでもあるがそれが芽生えて来る始めはその上に積もっている心のごもくたにちょっと火が付いて不完全燃焼を起こしてその煙が罪の意識として感じられて本人は苦しくて、心がさいなまれて仕方が無いという事になるのである。

 しかし、その煙もうもうの時期を乗り切れば、その煙もうもうがめらめらと燃え上がる大きな炎となり、最後はただ光一元の輝き、ただただ悦びの解脱の境地、即ち罪このままナイの自覚になり、嬉しくて仕方がないという状態になるのである。それこそ本来罪の無い光り輝く我々の生命の実相そのものが表面に出て来た状態である。しかし、それがまだ完全に出て来ていない場合はその本来罪無しの生命の実相の光が心のごもくたを不完全燃焼させて煙を出し、それが却って、罪の意識となって本人を苦しめるのである。
 
 我々はこの人生を生きておれば、様々なやらなくてはならない使命とか役割とか任務というのがある。それは生長の家の光明化運動に携わっている人で重要な役職とかについている人に取ってはなおさらだろう。それで悦びの運動という事が提唱される訳である。
 しかし、悦びの運動というものは一筋縄で出来るものではない。やはり、最初はせっかくの休日は遊びたいとか休みたいとかそんな誘惑に打ち勝って、家庭訪問をやったり、会議に出たりしなくてはならないのである。
 それはこれをしなくてはならない、やらなければ罪であるという動機に動かされているのである。そこにははっきり言って、心の底からの悦びは無いと思う。しかし、使命だからやらなくてはならないと思って自己に鞭打ってやるのである。それはその人の神性が内側から芽生えてきたからである。
 しかし、まだ罪の意識の煙がもうもうとしていて、本人は苦しいのである。しかし、そうした状態は永久には続かない。そうした中でもひたすら神を信じ、愛行を続ける人はもうこれ以上苦しくて耐えられないというぎりぎりの時点をぽっと過ぎるとこつねんと煙が消え、ただ悦びの光のみの世界に出るのである。そして、ただ嬉しくて悦びで行き届いた愛行が出来る様になる。それは自分ではなくて神が全ての仕事を既に完成して下さっているという安心感というか悟りである。そこから嬉しくなって色々な活動が元気一杯でやりたくなるのである。

 この様に罪の意識というのはその本来罪無しという悦びの光がもうすぐ出て来る時に出て来るのである。
 
堀 浩二
by koujihori | 2007-07-26 21:53 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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