人生は学校である

  生長の家ではこの人生は我々の内在する素晴らしい生命の実相の完全円満さを表現する為の場であると同時にそれはその表現の為の訓練の場であるとも教えている。そして、その訓練というのは実は我(が)がやるのではなくて、我々に内在する完全円満の生命の実相がその無限性の為に悦びで躍動するのであるがその自ずからなる躍動が人生学校における我々の実相顕現の為の訓練となるのである。
 
 ところでその訓練をする為には我々は全力を出さなくてはならない。全力とは命掛けの事である。命掛けの訓練とはそうせざるを得ない状況に自らの身を置くという事である。それが背水の陣を敷くという事である。
 背水の陣を敷いて、これを全力で命掛けでやらなくては死んでしまうという状況にならなければ、真の実相顕現の訓練というものは出来ない。その為には自ら自分の人生に課題とか問題を作るのである。その自らの心で作った人生問題でもって、自分に背水の陣を敷かせて、全力で人生勉強の訓練とか学びを我々はするのである。

 我々は人生を生きていて、生き通しの命であるから何回も生まれ変わるが、そこで自分が心がまだ幼くて迷っていた時に色々の間違った行動とか思いをし、恐怖もする。
 そして、自ら心の世界に不幸とか問題の種を作るのである。そして、その結果を今生で刈り取る人もいれば、来世で刈り取る人もいる。我々のあらゆる人生上の問題とか課題とか試練というのはこういう風にして出て来るのである。
 しかし、それは神の子である我々が自ら実相顕現する為に自ら作り上げた課題なのである。だから、我々の人生はいかなる失敗があったかに見えてもそれは一つも無駄なものは無く、全ての全てが我々の実相顕現の為の命がけの訓練の為の貴重な練習台なのである。
 だから、我々の人生はどんなものであっても百点満点なのである。我々はともすれば自分の人生に起きてきた過酷な運命とか試練とかを呪い、何故、自分だけがこんな目に遭うのだと言ってみたり、また生長の家を勉強し始めると自分の心が定まらなくて悪い事を思ったり、やったりしているからこんな事態を引き起こしたなんて自分を責めたり、落ち込んだりするが、我々の自分の与えられた課題は我々一人一人のかけがえのない個性と素晴らしさを訓練する為の最も素晴らしい学びなのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-07-28 22:02 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)
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