執着しないということ

 今、ベストセラーになっている本で「賢人の知恵」という本がある。それは副題が「正しく生きるな。賢く生きよ」となっている。私は書店でこの副題を見た時、ハッとした。
 
 私は正義と善を何よりも価値があると思って来た。そして、人間として一番守らなくてはならない善は殺さない事と不倫をしない事であるという価値観をずうっと持ってきた。 殺しとか不倫というのは人間として道に外れた事であり、こんな事をすれば、神と波長が合わなくなり、生長の道から外れると思って来た。だから、この二つの不徳は決して犯すまいと誓っていたし、今もそうであるが、私はこうでなくてはならぬという思いが非常に強く、不倫とかしている人を非常に審く心が強かったのである。その他、人としてこうでなくてはならぬという基準が自分の中に強く持っており、それで自分も縛り、他人も審くのであった。

 しかし、それは我(が)の一種なのである。生長の家では善にもとらわれたら悪になるという教えがある。私は正に善にとらわれた人間であった。善にとらわれればそれは一種の地獄である。そんな私を友人は視野が狭いと言った。それは確かにそうである。

 私は会社で上司の決定した事でどうにも腹に据えかねる事があった。それは人道上絶対赦せない事であると思った。私は上司に対して、その思いの丈をぶつけたのである。そして、その上司の決定を覆すべく、色々工作活動をしようと思った。しかし、その間の私の心は地獄図さながらであった。人間は善にも執着すれば鬼になってしまうのである。

 私は自分が間違っていると思った。いくら自分の目から見て、これが正しいと思うような事があっても、それに執着すれば、それは神の御心にかなわないのである。私は自分の意見は言ったが、それで最終的にどうするかは上司の決定に任せようと思った。要するにこうでなくてはならぬという執着を捨て、一切を神に全託しようと腹を決めたのである。そうすると私の心がすうっとして来て、心の平和が戻って来た。善にも執着したらいけないのである。「私が」という心を捨て、神に全託するのである。そうした時、神様が全てを良い方向に自ずと導いてくれるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-08-01 23:06 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(4)
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Tracked from マナブならcocoガイド at 2007-08-15 12:29
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Commented by erica at 2007-08-02 12:55 x
>善にも執着したらいけないのである。
その通りだと思います。善に執着するというのは悪を認め、悪と対立しなければいけないとの思いから来るので、苦しみを生んでしまうのですね。

また、人殺しや不倫とかは、心の世界でもともと存在し、現象世界に現れた映像のみであって、その映像を反射さた人のみが悪いとは言えません。心の世界が先であり、心の世界で夫、または妻、に対して不満を抱いたり、余所の人を好んだりすること自体が不倫だと思います。また、親戚や友人と絶交したり、「もう見たくもない」と思ったりすること自体が自分の心の中で相手を殺すということになる、と私は思います。
人生学校だからこそ、そのような気持ちを持ったことはないという人は居ないでしょう。そう考えると、他人の殺しや不倫を審くことに、五十歩百歩と言えるでしょう。

ですが、実際には、殺しや不倫をした相手は存在しない、人には見えない心の中で人を殺したり、不倫をしたりする私も存在しない。全ての人間は罪のない、完全円満の神の子である、と私たちは教わっています。
幸いに、この自覚があるから、善に執着しないで、安心して神に全託できるのですね。
Commented by koujihori at 2007-08-02 21:15
ericaさん

 いつも素晴らしいコメント本当に有り難うございます。「善に執着するというのは悪を認め、悪と対立しなければならないとの思いから来るので苦しみを生んでしまう」というお言葉にはなるほどと思いました。

〉善に執着しないで、安心して神に全託できるのですね。

 そうですね。ところで今回の文章で引用した上司の指示の件ですが、神様に全託したら、お陰様で良い方向に行きました。
Commented by 三谷文人 at 2007-08-02 21:57 x
 堀さん、こちらこそ先日はどうも有り難う御座いました。

 )善に執着するというのは悪を認め、悪と対立しなければいけないとの思いから来るので、苦しみを生んでしまうのですね。

 私もその通りだと思います。
 「善」というものは、それ自体が独立して存在する概念ではなく、対立概念の「悪」とセットになって存在するものですから、「善」を摑むことは、そのまま「悪」も一緒に摑んでいることになると思います。

 私達は、右に行くのも、左に行くのも自由な境地に出なくてはならないのですね。分別の知恵を超えて、「善」も「悪」もない世界に出た時、そこに顕れたる現象が「善」なのだと思います。

 実相世界は、「善」のない世界ですから、「善」に執着している限り、実相世界には入れませんね。
Commented by koujihori at 2007-08-03 08:47
三谷さん

〉分別の知恵を超えて、「善」も「悪」もない世界に出た時、そこに顕れたる現象が「善」なのだと思います。

 そうですね。僕は善というものをつかむのをやめて、神様にどうなろうと全託したら、自ずと良い方向に行く事が出来ました。正に我々は今、このままで神様に生かされているのですね。
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