臨機応変さ

 生長の家では善にもとらわれるなという言葉がある。どんなに善い事でもそれを何としてもこうでなくてはならぬと固執するとそれは却って悪になるというのである。

 私は会社の昼休みは卓球をやっている。そこで会社の人と卓球の試合を毎日するのである。私は卓球は子供の頃から慣れ親しんでおり、もう20年以上も毎日会社の昼休みでやっているので卓球に関してはある程度自信がある。
 その調子には波があり、同じ相手に勝ち続ける事もあるがその人に逆にどうにも勝てなくなる時もある。その度にこうしたらよいと工夫して行くのであるが、ある人と試合する中でフォアハンドのスマッシュを思い切り打つという事を一つのテーマにしていた。しかし、その相手は変なフォームから変な緩い山なりの球を返して来て、それがアウトしそうなのにいつもぎりぎりに入るのである。
 それでそれを自分の決めた通りにフォアハンドのスマッシュを思い切り打つのだがそれをアウトしてしまう事が多かったのである。相手は変則なフォームで体勢を崩しながら緩い山なりの球を返して来たり、かと思うと普通は強く打たない様な低くてスピードのある球をいきなり強打して来て、それが決まったりする様な事が多かった。
 最初はこの相手に勝ち続けたが、相手は中々ミスをしない様になり、それでこちらは自分のテーマのフォアを強く打つという事ばかり固執する中、すっかり気持ちが空回りして試合に負けてしまう事が多くなった。そうなると自分としてはこんなはずはないと思って、強引に勝っていこうとするがそうなるとますますミスが多発して勝てないのであった。

 その時、私は気付いた。これは私が自分のやり方にこだわって、相手にうまく合わせた試合をしていなかったと。自己の独りよがりではなく、相手に合わせる事である。状況に応じて臨機応変でなくてはならない。それが分かった時、相手に応じた動きが出来る様になってまた試合に勝ちだした。

 我々、特に生長の家信徒は生長の家の本に書いてある生き方、特に聖典「生命の実相」第七巻「生活編」に書いてある所のこうすべし、こう生きるべしという事を生活の指針にしようとする。しかし、どんなに良い模範的生き方でもそれにとらわれては生命の自由を失って行き詰まるのである。

 本当の善は絶対善として我々の中の無限の神にあるのである。その事を自覚する事が何よりも大事である。形に表れた数々の具体的生き方、やり方はその我らの中の無限の絶対善から必要に応じて臨機応変に出て来た一つの形式である。
 世の中には本に書いてある様な標準的又は理想的な事は一つもなく、こちらの予測不可能な又はこちらの考えを超えた事がいくらでも起こって来るのである。それなのに自分の中にマニュアル的考え、生き方、やり方しか無ければ、その時、その場でどんどん変わる状況、相手に対応する事はとても出来ない。
 だから、大事な事は形式にとらわれるのではなく、その時々の状況や相手に応じて変幻自在にその時何をやり、何を言うべきかを自分の中からの直接的判断、インスピレーションで決定しなくてはならないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-08-24 13:09 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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