自己の行いは自己の業の消えゆく姿である。

 我々はこの様に生きよう、生長の家の生き方を実行しようと思っても、そう思えば思うほどそれが実行出来ず、却って逆の事を思ったり、してしまう事がある。今に集中しようと思っても、気がついたら何か考え事をしていたとか、取越苦労しないようにしようと思っても心配したり、他人の悪を見まいと誓っても、気がつくとあの時、あいつはこう言いやがったとか、こうしやがったと思い出して、憤慨したり。
 
 自己の行いというのは確かに大切であり、それが身口意の三業の一つであり、それがまた我らの未来の運命を造って行くが、行いとか行動というのは自己の過去の念の具象化であり、結果であるとも言えるのである。だから、変な雑念とかが出て来たら、これで消えると思って、それを何とかしようとつかまなければよい。それを何とかしようと焦ったり、自分は雑念が浮かんで来てしまう駄目な者だと思う事が新たな身口意の悪業を造るのである。
 自己の悪い行いは現象であり、心の世界にあったものが形の世界に出て来た、言わば結果である。従って、自分が何か悪い事をしてしまったという事は自己の迷いが消え行く姿であるとして感謝したら良いのである。それを自分は駄目な自分だ、こんな事をしてとか思えば、それがまた心の悪業になるのである。悪い行いが出て来たのは自己が悪い訳ではない。自分の中の業が表面に出て来ただけである。そして、それは実相が自分で出て来る過程でもある。
 
 私は生長の家の生き方をやり切れず、心を今に集中させていなかった事が祟って、奈落の底に落ちたのである。しかし、その事が因となり、私の生涯の師、榎本恵吾先生の元で生長の家の神髄を与えられるという誠に尊い神縁を得る事が出来、そして、私の実相が出て来たのである。自己の心がコントロール出来なくて、失敗してもそれがそのまま私の実相が出て来る道程であったのである。だから「そのまま」で良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-08-29 12:23 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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