実相が出て来るということ(3)

 生長の家では現象の奥の人間の本当の姿、即ち実相は神の子であり、完全円満、無限力であると説く。神の子とは神の事であり、要するに人間は神なのである。その神は無限であるから、宇宙の隅々まで拡がったものである。その神の無限生命に生かされているのが我々一人一人の人間の生命である。我々の生命は神の無限生命に直接生かされているが故に我々個人個人の一生命は宇宙に拡がる神の無限生命と一体であり、我らは神の子であると同時に神そのものである。その神に生かされているという事実が我らが神そのものという事である。それは我らの無意識に行われる生理作用とも顕れ、かつ我々の「こうしよう。」と意識した心ともなって顕れる。だから、我々は自分で生きているようで、神に生かされているのであり、神そのものであるのである。

 さて、人間とはかくも素晴らしいものであり、この人生はその素晴らしさを表現する為の場である。それと共にそれを表現する為の訓練の場でもある。だから、我らの人生は悦びの表現の場であると共に自己を知り、その素晴らしさを現し出す為の人生学校とも言えるのである。学校であるから、多少困難な問題も出て来る。

 それではその自己の生命の実相の素晴らしさを現し出すにはどうしたら良いであろうか?それは生長の家の聖典「生命の実相」の第七巻「生活編」と第八巻「観行編」に書かれているが、人間は自分を神の子であると知識的に知ったら、それを神想観という瞑想法でその自己の生命の実相の素晴らしさをじいっと観ずる訓練をして、それを自己の潜在意識の奥底まで徹底させて、かつその後はその自己の生命の実相の素晴らしさ、完全円満さを実際の生活に行動化しなければならないと説く。
 だから、順番的に先ず①自己の生命の実相を知識的に悟る②次にそれをじいっと心の眼で観ずる③そして、それを行動化する、という事になる。良く生命の実相の第七巻ばかりを取り上げて、生長の家の生活法をやかましく言う生長の家の人がいるが、それは間違いであくまで先ず心の中の生命の実相の悟りが先で、そこから自ずとその生活化が出てこなければならないとはかの生長の家の迦葉尊者と言われた吉田國太郎先生もその流れを汲む榎本恵吾先生も口を揃えておられる。

 ともかく、根本的に言うと我々は自己の中の無限の宝を使う(生活化して無限力を出す)には良く生長の家の中で出て来る話である「コートの内側に無限億円のダイヤを縫いつけられている事を知っている人はそれを自由に使える」の例えの通り、自分の生命の実相の完全円満の存在に実際に気がつけば良いのである。気がつきさえすれば、それを使うなと言われても人は自ずとその宝、即ち無限力を使い、そして人生の難局を勇気を出して、立ち向かって行き、切り開く事が出来るのである。その自己の生命の実相の完全円満さに実際、気がつく為に生長の家の三正行(神想観、聖経読誦、愛行)と言う行がこれから生長の家の真理を究めようという求道者に示されているのである。その求道生活の中で自己の生命の実相の完全円満さを実感する時が来る。それは必ず来るのである。何故ならば我らの本当の姿は神の子完全円満であり、それは無限の悟りでもあるから、その悟りは必ず自ずと目を覚ます時が来るからである。
 
 それまでは生長の家の道は必ずしも甘いものではない。生長の家をやっている人でやらない人、生長の家などそもそも知らない人より悪くなったり、苦しくなったりするのはその為である。しかし、それらはあくまで人生学校で出て来る課題に過ぎないのであり、そうした困難の中で諦めないで努力を継続し、自己の生命の実相の可能性を掘り続ける者は必ず、その宝庫を掘り当てる事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-09-18 13:16 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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