人は分かってくれない(2)

 以前にも取り上げた生長の家の「使命邁進の神示」を再びここに書く。

 「人がどう思うかも知れぬと、そんなことばかり気にかけてゐるやうなことでは心の苦しみは絶えぬものだ。自分がどの位愛したか、自分がどんな仕事をしたか、そればかり考えるが好い。肉体の人間は誤解するものだとあれほど言ひきかしてある。肉体は念の集積で出来たレンズ又はプリズムであるから、人によって其の『眼鏡』は違ふから、どんな光線でもみんな屈折して見えるし、人によって屈折の仕方も違うのだ。(中略)誰が何と思っても、それは迷いで屈折して色々に観るのであるから、ただ神に知られることだけを求めて人に知られようなどと思わぬが好い。・・・」

人は分かってくれないのである。神示にある様に肉体は念の集積で出来たプリズムであるから、人によって一つの光線の屈折の仕方が違うので、一つの事でも十人十色でとらえ方が異なるのである。だから、自分の真実など他人には殆ど分かってもらえないのである。だから、人に認められようなんて一切考える必要は無い。従って、人にどう思われているかなんて全然気にしなくて良いのである。ただ、人に与える事だけ考えておれば良いのである。

 私は十年位前、地元の自治会で市民運動会の運営部長みたいな事を三年間やった。それは役員を集めたり、買い出ししたり、打ち合わせ会議や前日、当日の準備等々色々の仕事をボランティアでやるのである。でも、その翌年に運動会の功労賞に選ばれたのは私ではなくて、他の人であった。その人は運動会の当日、スタート係を毎年やり、さわやかな感じのスポーツマン的お父さんであったから好印象があったのだろう。しかし、私の心中、複雑なものがあった。オレはこれだけ日陰で頑張っているのに何で運動会当日だけ目立つ人であるあの人に功労賞が授与されるんだと。

 また、私はやはり十年くらい前から地元のPTAのソフトボール大会の時の縁で地元のお父さん達で作った野球チームのまとめ役をやっている。それは毎週日曜早朝に地元の早朝野球リーグでの試合か他チームの審判等をやり、その他の週は練習をやり、その他、年二回は市民大会にも出て、その為の抽選会とか、試合日程連絡、人集め等の活動をやるのだが、こうした活動を毎年、ほぼ3月頃から10月頃まで半年以上に渡ってやるのである。
 そして、野球の試合には私は毎試合行くが、選手としては殆ど出場せずに監督という肩書きでベンチ入りして、選手の成績をスコアブックにつけるのである。人数が集まらない時は色々な人に相談して必死になる。試合や審判のある時は日曜の朝4時30起きである。私は殆どの試合や審判に行くから、シーズン中は殆ど毎週日曜4時30分起きである。しかも前述の様に自分がプレイを楽しむ訳ではないのである。試合が無い週は朝6時30分から練習であるが、それも私は毎回行く。
 しかし、である。私のそういった地道な献身的活動は殆ど他人から評価される事は無い。

 私は本当に一時、嫌気がさしたのである。しかし、私はこの「使命邁進の神示」を思い出したのである。肉体の人間など誤解するものである。だから、人からの評価なんて本当にどうでも良いのである。そんな事を考えずに自分が神に恥じない生活をしておれば良いのである。神の評価のみが絶対のものである。そして、我々は他人に対して、認められようとしないでただ与えておれば良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-09-27 13:07 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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