悪い所に引っ掛からない

 私の子供の頃からの性格として、自分の悪い所を良くしようという所があった。小学校の頃の工作の時間で本箱を作る授業があった時、私は他の生徒と比べて、わざと難しい手の込んだ作り方をした。それが本来のごまかしの無い作り方であると思ったからである。
 私はその工作が非常に困難を要したのでさぞかし、良い点数がつけられるかと思ったら、結果は私より遙かに楽な作り方をした生徒の方が点数が良かった。見た目は確かにその生徒の作ったものの方が綺麗な感じがした。
 また、友人同士の遊びでも今、楽しめばいいものを、その遊びの道具がちょっとでも壊れていたら、それをきちんと整備修理しないといけないと思って、友人が適当な不完全な道具でどんどん楽しんでいるのを横目にせっせとその道具を治していたなんて事もあった。また、プラモデルを作るのでも完璧にこだわり過ぎて、完成できずに組立をやめてしまうという事もあった。友人はどんどん作って、完成させてそれで楽しく遊んだりしていた。

 また、世間では「私のこの鼻があと少しでも高かったら」と思って、自分の容姿の欠点ばかりに引っ掛かり、それを整形手術で治したが、今度はまた、他の所が気になって来たなんて事が良くある。
 また私はテニスをやっていて、自分のサービスが弱点だ、これさえ良くなれば自分のテニスは完璧になるなんて、思ってそれを良くしよう、良くしようと思っていた間は何時まで経ってもサービスが良くなる時は来なかったのである。
 悪い所を良くしようという心は自分はまだ不完全である、まだ完全円満でない、という心の裏返しである。良くしようという心が既に不完全を観ているからである。実相においては自分は完全かもしれないが、そのままの今の自分は不完全であるという心が自分の弱点とか欠点を自分自身の心で作り出して、現象に投影させて自分に見せているのである。それでそれを心につかんで良くしようとする。
 しかし、心につかんでいる以上いくら良くしようと思って、整形して見たり、色々努力、工夫してみても、それが別の形態でまた現れてくるのである。要するに欠点とか未発達とか不完全というものは具体的に存在せず、自分で勝手に心で生み出している事であるからである。本当の今、我々が現に住んでいるこの世界又は本当の自分自身は今、そのままで何の欠点も不完全も未発達も無く、完全円満、無限力であるのである。
 悪とか欠点とか迷いとかそうしたものは例え見えていてもそれは実相ではなくて、自分が勝手に想像した仮の存在、モヤの様なものだから、放っておいて、良い所をどんどん伸ばし、どんどんそれを今、悦んでいけば良い。良い所こそが本当の姿であるのである。
 それが実相独在の信仰であり、また、そこに今すぐここに天国浄土が拡がっている事を実感する事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-01 13:05 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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