野球の審判

 私はこの世で一番恐ろしいものは何かと聞かれればそれは野球の審判をやることだと答えるだろう。
 私は息子の通っていた小学校のPTAのお父さん達によるソフトボール大会のつながりから出来た野球チームのまとめ役、会長を仰せつかっている。
 私は野球の経験はそれほどないが、何故かこのチームの会長をやることになったのであるが、会長という立場上、加盟している早朝野球のリーグ戦の他チーム同士の試合の審判に率先して行かなくてはならないのである。しかし、私はこの野球の試合の審判ほど苦手であり、それをするのが非常に恐怖を感じるものはないのである。

 実際、3年前にもひどいジャッジをしてプレーヤーからひどく抗議されたし、それが自分としては一種のトラウマになっていたのであるが、今年も今月から早朝リーグが始まったのでいやでも審判に行かなくてはならなくなってしまった。私は性分から自分は出来ないからやれませんと言えないので、本当に悲壮な覚悟で渋々審判をするのである。
 そして、先週の日曜日の15日に他チーム同士の試合で三塁の塁審をやったのであるが、実際その試合の間の約2時間は自分に取って拷問に等しいものであった。一回だけ三塁でクロスプレーがあり、私はとっさにアウトの判定をしたが、実際微妙にセーフだったらしく、アウトにされたチームからまたもやひどく抗議された。
 私はその翌日の朝、目覚めた直後、寝床の中で前日の自分のまずいジャッジがすぐ頭によみがえり、ボーっとした意識の中で他チームの人から批判される妄想で苦しんだのである。こんなに苦しい思いがあるだろうかと思ったほどである。
 しかし、それは実は私に取って、素晴らしい転機の始まりだったのである。私は前にも書いたが自分自身、ものごとに対してこうあるべきだというのが非常に強くて、それは他人を自分の基準でひどく責め付けることにつながっていたのである。
 しかし、野球の審判でミスしてプレーヤー達からひどく責められたことで私は人から自分のミスを責められるということはこんなにもつらいことであるのかと痛いほど感じ、だったら私も人のミスを心で責めるのをやめようと思ったのである。
 そして、私が現在、心で責めているある人のミスを無条件にこれを赦そうと思ったのである。そして、今は神様から人を赦すトレーニングをやらされているのであると思ったのである。

 そしたら、私に一大変化が起こったのである。私のこのものごとはこうあるべきだという考えは自分にも向けられ、それがちょっと真面目すぎる、ものごとをきちんと完全にやらなくてはならない、また特に人を傷つけてはならないというちょっと強迫観念に等しいものにもなっていたのであり、それが私を長年苦しめていたのである。しかし、こういう思いを持っていると自分で自分を縛り、却って力が発揮出来ないものである。だから、野球の審判もうまく出来なかったのである。
 それは他人をそして自分を取り巻く世界を信頼出来ず、自分が何とかしなくてはならないという我(が)でもあった。そして、世界を相手を信じられないから常に悪くなるんじゃないかという恐怖心もあるから、ますます萎縮して力が出ないのである。
 しかし、人を無条件に赦すことを学んだ私は何より自分自身が神から赦された感じがして、自分の生命を縛っていた心の鎖が取れた感じがしてきたのである。そういう心境になれたということは、私に取って何よりの得難い宝であり、そうする中で私のあらゆる能力が以前より、スムースに気持ち良く出て来て、人間関係までもより明るい、スムースなものとなって来たような感じがするのである。

 私の信仰している生長の家の人間神の子、無限力、そしてこの世には何も悪いこと、悪い人はいないという信仰がこの自分の最もいやだと思っていた野球の審判をさせてもらうことで実際の生活面でも生きて来たと思う。
 そういう意味で私のジャッジングに罵声を浴びせて来た人は正に恩人であり、その罵声は実は私の中の眠っていた無限の可能性を呼び覚ましてくれるかけ声であり応援歌であったのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-05-22 18:39 | スポーツ | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/630018
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 日本の防衛について 次郎のこと >>