真理を実行するのは誰であるか

 我々はこういう時はこういう事をせよと生長の家で教わる事がある。例えば、色々と後先の事を考えて、心が乱れる時は今に集中せよとか、出来るだけ明るい事を考えろとか云々。

 しかし、聖経「続々甘露の法雨」には次の様に書かれている。「若し汝の心にて恐怖を滅せんと努力して、而も恐怖を滅することを得ざるときには恐怖を捨てんとする努力をさえ止め、唯そのままであれ、ただ実相(そのまま)であれ。如何なる恐怖も「生命」の実相(そのまま)の中には存在せざるなり。」

 私は生長の家を学んでいて、色々な経験を重ねて行って、こういう時はこういう心境である事が良いとか、こういう事を実践するのが良いという事を学んできた。大体がそれは全託の行動化であり、捨身であり、思い切り良く生きるという事が多いが、そういう生き方は本当に恐怖を感じる時、緊張する時はその生き方にも自信が無くなって、本当にどうしたら良いのか分からなくなることもある。

 そうした時、私はどうするかというと「そのまま」でいるのである。要するに自分の緊張とかを和らげる為に色々と効果的な心の姿勢を取る事は本当に緊張した時はどうして良いか分からなくなってしまうのでそういう時はひたすら「そのまま」であろうとし、あえて何か工夫しようとかじたばたしないのである。

 そうした時、私は神様が自分を生かして下さっている事を実感するのである。要するに生長の家の生き方即ち真理を実行するのは私という我(が)ではなくて、我が内の神であるという実感を如実にするのである。生長の家ではこれを「神が神する」と表現している。要するに自分が生きているのは自分ではなく神様がここにあって生きているのである。自分の手柄とか功績など一つも無いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-05 13:01 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented by erica at 2007-10-05 17:04 x
堀さん
たぶん、今回はご希望されいらっしゃるコメント外になってしまうが、失礼します。
>私は生長の家を学んでいて、色々な経験を重ねて行って、こういう時はこういう心境である事が良いとか、こういう事を実践するのが良いという事を学んできた。
何時のときこうするか、ああするかの心境とは生長の家が教える心の持ち方でしょうか?それは狭すぎるのではないでしょうか?だから、「本当に恐怖を感じる時、緊張する時はその生き方にも自信が無くなって」しまうんですね。
生長の家の行き方はそのときそのときにあわせるのではなく、この文書でも仰っている「ただ実相である」を生きることであると思います。生涯全体、一分も欠かさず、何に対してもただ実相であることではないでしょうか。
Commented by koujihori at 2007-10-05 17:22
ericaさん

 >生長の家の行き方はそのときそのときにあわせるのではなく、この文書でも仰っている「ただ実相である」を生きることであると思います。

 仰る通りですね。生長の家の具体的な一つ一つの生き方は一つの型です。それはスポーツではフォームの様なものです。それは実相そのままから適宜にその時、その場に応じて出て来ます。しかし、その一つの生き方、型にとらわれてしまうと我々は生命の自由を失ってしまいます。

 だから、ある生き方が分かったからと言って、そればかりにとらわれると駄目なので、そのままの実相の自由な流れに任せて、その時、その場に応じて、適宜に具体的な生き方を駆使して行く事が正しいと思います。それがericaさんが仰る生涯全体、一分も欠かさず、何に対してもただ実相であることだと思います。ただそれを我(が)の判断では出来ませんね。(我(が)っていうのは英語でegoの事です)それはただひたすら我々の中の神様が判断し、行動される事です。
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