生かされている。

 私が生長の家宇治別格本山で榎本恵吾先生から受けた薫陶の中で大きなものの一つに「我々は生きるんじゃないんだ、生かされるんだ。」というのがある。

 ある人が榎本先生に相談した時であるが、その人はもう生きるのが嫌になったと先生に告白したのだそうである。そうしたら、先生はその人に「僕も嫌だよ。」と仰ったそうである。
 自分が生きると思うとそれは大変な事である。自分が呼吸するのも心臓を動かすのもその他、肉体のあらゆる機能を司るのに自分の力で意識してやっている人はいない。しかし、自分が生きていると勘違いしている人は自分の体も自分で生かさなくてはならないと実は心のどこかで思っているのである。
 私の知人はある時、心臓があると意識したとたん、その心臓がひとりでに動いているのが、信じられなくなり、心臓が止まるのではないかと心配になり、眠れなくなった人がいる。要するに人間というものは自分の肉体の事を思い出し、それに引っ掛かると肉体がうまく機能しなくなるという事だが、肉体があると思うという事は心が肉体という物質にとらわれているからそうなるので、肉体を忘れて今、目の前の事に集中する時、肉体という物質を忘れ、心が神に向かうので肉体も健全に動くという訳である。

 それはともかく、我々は自分の我(が)の力で生きているのではなく、神に生かされているのである。だから、神想観という生長の家の瞑想の時は「神の無限の生かす力に生かされている」と念ずるのであり、生長の家の招神歌(かみよびうた)でも「吾が生くるは吾が力ならず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)」と唱えるのである。

 だから、我々はこの人生を生きていくのに何の心配も要らないのである。自分という我(が)が生きるのであるならば、我々は常に心配し、心を緊張させていなくてはならないのである。常に自分の心臓を動かすためにあくせくし、呼吸も常に意識して行わなくてはならないだろう。実際そんな人は居ないが、肉体の生理機能ではなくて、病気になったりする事を恐怖し、自分で何とかしなくてはならないと思っている人はいるだろう。また肉体以外の事で人生上の問題も自分で解決し、自分で処理して行かなくてはならないと思っている人は沢山いるだろう。それで悪くなりはしないか、今のままで充分かどうかなんて常に気にして、不安になっているのである。しかし、そう思えば思うほど、恐怖心は募り、心配した通りの事が却って出て来る。

 しかし、我々は一切、自分が生きる必要は無く、全宇宙に拡がった完全円満、無限の智恵、愛、生命なる神に今、完全に生かされ、導かれているのである。その事を知れば、何の不安も恐怖も重荷に感ずる事も無く、人生全てがうまく行くものである。要するに神に生かされている事を悟れば、それが現象的にも出て来るのである。
 しかし、それは自分の心が悟ったから、生かされる様になったのではない。元々、生かされていたという事実に自分が気付いただけである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-24 12:32 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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