本当の信仰

 生長の家の神示の一つ「久遠生命の神示」にはこうある。「吾が臨(きた)れるは物のためではない、生命のためである。肉のためではない、霊のためである。これを覚るものは少ない。物の生滅に心を捉えられ、物が殖えたときに信仰を高め、物が減ったときに信仰を失い、身体が健康になったときに神を讃え、家族の誰かに病気が起こったと云っては信仰を失うが如きは、神を信じているのではなく物を信じているのである。・・・」

榎本恵吾先生の御文章の中に「実相はそのままで完全円満であるからそれが表面に出て来ているかどうかなどは問題ではない。」というのがある。私はこの御文章を初めて拝読した時、それは違うんじゃないかと思った。というのは我々は実相は神の子完全円満、無限力であるが、それを現象世界に表現しなければ意味は無いし、その為にこの人生があるのじゃないかと思っていたからである。

 しかし、最近私はその意味が分かって来たのである。実相は今、ここに確かに息づいているのであり、それが何より素晴らしい事であり、有り難い事である。それが表面に出ている出ていないは問題ではないのである。その実相の素晴らしさが何時どのように表面に出て来るかは神の御心次第であり、それは我々に取って、最も良い時期に最も良い形で出て来るのである。
 私は神の子であるから、その実相は完全円満、無限力である。しかし、現象的に不如意、不完全、問題はいくつかある。私はその事に引っ掛かり、それを現象的に改善する事が出来るまでは本当には悦べないと何となく思っていたのであるが、それは間違いである事に最近、気がついたのである。
 現象など誰でも完璧という訳にはいかないのである。それなのに現象的に完璧になるのを待ち望んで、それまでは悦べないのなら、我々は永遠に悦ぶ事は出来ないのである。現象に実相が出て来ているかなどどうでも良いのである。我々は今、神の子、完全円満、無限力であるからだ。
 繰り返しになるがその完全円満さが現象に何時、出て来るのはそれこそ神の御心次第であり、それは我々に取って、最も良い時に、最も良い形で出て来るのであるから、神様に全託しておれば良いのである。
 その事が分かれば、現象がどうであろうと今、すぐ悦べるのである。そして、他人から何を言われようと平気になるのである。そうした心境になるのが本当の信仰である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-26 12:59 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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