今、このままが実相顕現の道である。

 我々は生長の家でこの現象の奥に完全円満の実相世界が存在していると教えられ、自分自身もこの現象の肉体の奥に完全円満、無限力の実相生命が存在していると知らされる。そして、それをこの現象として、肉体として、如何に現すかは自分の心のレンズの清まり方次第だとも教えられるのである。
 だから、それを知った生長の家の信徒は心を清めようとして、普段の自分の心持ちとか行動を神様に見合ったものにしなくてはならないと思う様になる。それはそれで正しい。しかし、その事にとらわれると我々は失敗を過度に恐れる様になり、またいつも自分の心がきちんとしているかという事に一種とらわれる様になる。
 
 ここでも何度も申し上げて来たが、私などは一所懸命、生長の家をやり、心を清める事に専念して来たが、ちょっとした心の油断で今まで築いて来たものが全て崩れ去り、奈落の底に落ちた事がある。
 しかし、その落ちた所が実は私に取って、ちゃんと神様に用意された生長の本道であった。そこから、私は自分が心を清め、行動を清めていた積もりでそれが却って、逆に自分の心に無理をさせていた事が分かったのだった。要するに今、そのままでここが天国であり、今、そのままで自分が完全円満の生命ではないと言う認識を持ち続け、それを良くしようという心持ちを続けていた為にその迷いが積もりに積もって、遂に耐えられなくなって、自壊した事が分かったのだった。
 
 私は自分の肉体が自分の心のコントロールの失敗によって故障し、奈落の底に落ちたから自分はもう駄目なんだと思った。しかし、もう駄目などと言うことは無かった。それこそは私の実相顕現の道であり、墜落したと見えたのは単に現象的にそう見えただけで実は魂の部分では素晴らしい生長の一過程であったのである。
 私は宇治の生長の家の道場榎本恵吾先生の薫陶を受け、自己の生命が良くしようと力まなくても今、そのままで完全円満の生命であるという事を悟る事が出来た。(もちろん、それはこの現象の肉体の生命の事ではない。その奥の本当の私の生命の事である。)
 それは単なる偶然の幸運ではなくて、私の実相生命の自己顕現の展開であったのである。要するに我々は現象的に色々失敗したり、落ちたりするが、それは表面の姿であって、実相の神様の目から見れば、みずから実相顕現して行っている以外仕方の無い生命なのである。
 
 だから、もう駄目だと思って、決して諦めたらいけないのである。それは自分の中から素晴らしい実相顕現する正に直前の丑三つ時の暗さに過ぎないのであるから。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-01 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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