神に全託する。

 我々が生きているのは我々が生きているのではなくて、実は完全円満なる宇宙に無限に拡がる神に生かされているのである。何か不安に感じたり、迷いが出て来るのはその事を忘れ、自分という我(が)、肉体我(にくたいが)が自分で生きていると思っているからである。
  
 ものごとは本来、全宇宙に拡がる完全円満、全知全能なる神に今、そのままで全ての生きとし生けるものが完全に調和して、悠々と悦びに満たされて、生かされて、守られて、導かれているのである。それはもちろん、この現象宇宙の事ではない。この現象宇宙の奥の実相宇宙の事である。現象宇宙は実在せず、単に我々人類の認識が映っているスクリーンに過ぎない。存在しないのである。
 それなのに自分というちっぽけな肉体我、個我があくせくして、自分がああしなくてはああなりはしないか、こうしなくてはこうなりはしないかと心配して、恐怖して、こせこせ姑息な事を考えながら、生きて行こうとするから、不安になり、迷いが出たり、考えすぎたり、また欲をかいて人のものまで取ろうとしたりするのである。
 そして、現象は自分の心の通りになる世界であるから、その思いの通り、現象がおぼつかないものになり、迷い、力も発揮出来ず、病気になってつぶれてしまうのである。
 
 神に全託するのが良いのである。仕事のやり方、家族の事、スポーツやその他、技の研究、そして、生長の家の人などは自分が携わる人類光明化運動、生長の家の組織運動、そして自分自身の真理の探究、悟り等々全てを自分でやろう、分かろうとしてつかむのではなくて、神に全面的にお任せするのである。
 そうすれば、今、我らは一切の迷いや不安や恐怖そして、強迫観念から解放され、自信と智恵に溢れ、大安心に満たされ、無限力をあらゆる面で行使する事が出来るし、また全てのものは完全に大調和して、神に生かされ、守られ、導かれている実相を我らは見いだす事が出来るのである。
 それは我らの心が念力によって、そういう風に世界をねじ曲げたのではない。元々、全宇宙の全ての生きとし生けるものが完全に神に生かされているという事実に自分が気付いたから、見えて来たに過ぎない。元々最初からそれは今、ここにあったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-06 13:08 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(7)
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Commented by e_sophy at 2007-11-06 22:29
わたしのとこの教化部長先生が徹底して「神に全託」のかたなので、わたしもかなり教えられました。
それで、最近「神に全託している人」と「そうでない人」の違いがなんとなくわかるようになりました。
霊感とか直感とかじゃなくて会話をしてみるとね、ポイントがあるんです。
『生命の実相』とか読んでいるとそれを裏付けてくださる箇所があって安心。
「だからどう?」ってことでもないけど、自分を省みるポイントにしています。
Commented by koujihori at 2007-11-07 09:36
sophy様

 コメント有り難うございました。最近、コメントが無いので寂しく思ってました。
 ところで素晴らしい教化部長先生がいらして良かったですね。生命の実相とか雅宣先生の講習会とかの導きも有り難いですが、何と言っても身近に優れた先達がいるかどうかというのが真理探究の大事な所ですね。
 
 さて、神に全託している人とそうでない人の違いのポイントってどんなものなのでしょうか?
Commented by erica at 2007-11-07 22:02 x
>最近、コメントが無いので寂しく思ってました。
失礼しました。
さて、Sophyさんへなさったご質問ですが、私の意見も述べさせていただきます。
神に全託している人とそうではない人の違いを一言でいうと「心配」だと思います。神に全託すればできることを喜んでやり、結果に不安を持たないと思います。ただし、全託している人とそうできない人を区別するのはちょっとおかしいと思います。なぜなら、誰でもできる時があればできない時もあるからです。それが私達の人生の練習だと思います。

話が変わりますが、土曜日の御講話楽しみにしています。
Commented by yukiesakai at 2007-11-08 02:19 x
悦んでいるか、悦んでないか…かな?

  練習だけど、困ってても、悲しくても、悦んでる自分がいることが良いですよね。

Commented by koujihori at 2007-11-08 09:07
ericaさん

 >最近、コメントが無いので寂しく思ってました。
失礼しました。

 すいません。コメントを催促したみたいで。

 >なぜなら、誰でもできる時があればできない時もあるからです。それが私達の人生の練習だと思います。

 そうですね。でも僕の場合は十年前まで全くと言っていい程、全託出来ませんでした。何故なら、現象世界は自分の心の影という生長の家の教えを曲解して、この世界は自分が何とかしなくてはならない世界であると堅く信じていたからです。だから、全ての事が間違いなく為されているかどうか、気になって仕方がありませんでした。そんな事を何十年、続けて遂に不眠症になったという訳です。

 現在はお陰様で以前とは真逆の、この肉体もこの心もそして、廻りの全ての全て、自分のものではない神のものであるという自覚が出て来て、神に全託出来る様になりました。でも、それは仰る通り、火の出る様な練習の連続でもありますね。
Commented by koujihori at 2007-11-08 09:13
幸江さん

 コメント有り難うございました。「コメントが無くて寂しい」というコメントに反応して下さったのでしょうか?言ってみるもんですね。

 悦んでるか、悦んでないかというのは素晴らしい観点ですね。困っていたり、悲しんでいても、そこに悦びがあるかどうか・・・うーん、深い言葉です。
Commented by e_sophy at 2007-11-08 11:40
ありがとうございます。
ポイントはいくつかあると思います。
いずれも「神に全託しているか」を自分に問うためのポイントです。
人を裁くためのものではありません、でも人を救うためには使えることもあると思います。
ericaさんのおっしゃる通り「心配しない」はポイントだと思います。
yukiesakai さんの「悦んでいるか」もそうだと思います。
私自身は「迷わない」「言い訳をしない」「恐怖しない」「他物に頼らない」「自己限定をしない」など、内なる神に全幅の信頼を寄せているかの点でいつも自分を省みています。
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