利己主義

 利己主義というのが良くない事であるのは誰も異論は無いだろう。しかし、自分の事が大切でない人も居ないと思う。だから、昔から「情けは人のためならず」という諺があるのである。要するに他人に情け、思いやりを掛ける事はいつかは自分にそれが返って来るのだから、人に親切にせよという事であるが、これは一見、いいことを言っているみたいだが、私にはまだちょっと取引的な匂いが感じられる。というのは究極は自分に良くされたいから、今は不本意ながら、他人に親切をしましょうという風にも取れるからである。考えすぎだろうか?

 生長の家では愛とはただ与えるものであるという風に説かれる。要するに見返りとか収穫を気にせず、当てにせず、与える事が悦びだから与えるのであり、そういう愛こそが本物であるというのである。これは最高の教えであろうと思う。ただ与える-こんなにも尊い気高い行為があろうか。そして、そういう人こそが結果的に尊敬され、慕われる。

 私は11年前にちょっとした心の緩み、油断で転落した事があるが、それは愛他的になれず、利己主義になり、自分の事ばかり考えていた為に転落したのである。そして、不眠症、神経衰弱になった。
 谷口雅春先生は不眠症とか神経衰弱は利己主義の人がなる病気だと仰っているが、正にその通りなのである。だから、不眠症とか神経衰弱の人は利己主義を捨て、愛他的になれば、治るのである。だから、私はそうなってから、この雅春先生の言葉通り、懸命に約一年間、愛行を徹底的に実行した。
 しかし、それで徐々に治ったかと言うとそんな事はない。いくら愛行みたいな事をする努力を重ねても一向に私の不眠症は改善せず、私はもうふらふらの生ける屍状態になってしまった。私は睡眠薬など医薬は一切手をつけなかったのでよくあの状態で生きていたものだと思う。
 そして結局、生長の家の宇治別格本山に導かれ、榎本恵吾先生の薫陶の元、自己の神性に目覚め、救われ、そして、不眠症も神経衰弱も完治した。

 要するに真に愛他的になる、利己主義を捨てる為には自己の神性に目覚めなければならないのである。目覚めれば、愛他的になろうと力まなくても自ずとそうなる。自己の神性に目覚めるとは自己は今、そのままで完全円満、無限力で、無限健康、無限供給であるという事を本当に自覚する事である。
 その様に自覚すれば、我らは自ずと他に求める事無くひたすら与えたくなるし、そして、おのれは既にこのままで完全円満であるのであるから、自分を良くしようと悩んだり、迷ったりする必要が無くなるから自分の事を考える事をやめ、自己を捨てる事が出来、自ずと利己主義を脱皮する事が出来、今、目の前のもの、人、対象に全神経を集中する事が出来、それが相手への与えきりの生活、愛の生活になるのである。そこにおいて悩みも憂いも消えるのであり、真の悦びの生活がある。悩みとか憂いとは自分を良くしようという心であるからである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-13 14:41 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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