何時までも怒らない

 ここで以前、紹介したエピソードであるが、今回、また引用させて頂く。
 かつて、榎本恵吾先生にお聞きしたお話であるが、谷口雅春先生がまだご活躍だった頃、本部か何かで先生を中心に会議をしていた時の事、その時は夏の暑い日であったので、扇風機を使っていたそうである。

 扇風機は首振り装置がついていて、自動的に首を振って、風を左右に流していたのであるが、その調子が良くないので雅春先生のお付きの人が適当に向きを調整しようとした時の事、突然、雅春先生が「それはそのままにしておいて下さい!」とそのお付きの人に一喝したのである。

 その声はすさまじい怒気を含んでいたそうで、お坊さんの一喝の「喝!」なんていう悟りに導く、爽やかなものなんてものではなくて、憎しみや憤りがドロドロに混じった様な怒声だったそうである。
 廻りの人達は一様に皆、その場で固まってしまったそうである。しかし、その後、また会議は進められていったのである。そうしたら、10分も経たない内に雅春先生はさっき、思い切り、怒ったそのお付きの人とまるで何事も無かった様に朗らかに談笑していたそうである。

 雅春先生は別の所で仰った事に「私も怒る事がある。でも私はすぐ、その相手を赦すんだ。」というお言葉がある。
 我々は和顔、愛語、讃嘆が大事であると生長の家で教えられる。しかし、それもとらわれれば駄目であり、時に怒るべき時は怒っていいのである。その方が相手を生かす事だってある。それはどういう事を怒るかと言えば、相手が神の子らしくない事をしている時に「それはお前の本性と違うだろ!」という事で怒るのである。それは相手の悪をつかんでいるのではなくて、相手の悪を非存在のものとして否定する事である。だから、どこまでも悪を否定し、相手の本性の善を観ているのである。

 しかし、我々はともすれば、何か相手から変な事を言われたり、されたりして、その場では適当に流していても、後からじっくり、相手の言った事、した事を思い出してみるにつけ、だんだん沸々と怒りが湧き上がって来るなんて事がある。それで自分の尺度で相手を審いて、どうしてもこれは道義上、赦せんなんてひとりでうじうじと怒り続けるなんて事が往々にしてあるものである。しかし、それは相手の悪をつかんで、とらわれているのである。悪とは本来実在しないものであるから、そんなものにとらわれれば、迷いは深まる一方である。それは「今」という神のいらっしゃる時を外しているからそういう事になるのである。「今」しか無いのであり、その唯一ある「今」にこそ、本来の実在である神はいらっしゃる。その「今」を外して、過去や未来の事をうじうじ考えたり、思い出したりしているから、本来実在しない、神でないもの、即ち相手の悪とか非道とかそんなものに引っ掛かるのである。そして、それが迷いや憤りや恐怖の正体である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-15 13:00 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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