講話とは相手を拝む行である。

 かつて、生長の家創始者、谷口雅春先生がご活躍だった頃、先生は講話をされる時、最初に聴衆に向かって、「有り難う御座います。」と深々と礼拝されてから講話を始められたそうである。
 ある霊眼の啓けた人がその聴衆者の最前列に座っていたが、先生が礼拝された時、ふと自分の後を振り返って見ると、後に座っている聴衆が全部、菩薩様の姿をしていたそうである。
 
 先生はだてに聴衆を礼拝されていたのではなかったのである。本当に聴衆一人一人の神性、そのままで完全円満で救われ済みの神の子の生命を拝んでおられたのである。
要するに生長の家の講話をするという事は救われていない、心得の悪い凡夫に向かって、「お前の態度、行い、心持ちのここが悪い。そういう心持ちだから病気になるんだ。わしが今から有り難い生長の家の真理、生き方を教えてやるから今後、心を入れ替えて、せいぜい善行に励め。」などと上からものを言う様な説教をする事ではないのである。
 また、似た様な事を谷口清超先生も仰っていた。先生は長い間、毎年、全国59教区をくまなく御巡錫されていたが、今から十数年前、谷口雅宣先生に御巡錫をバトンタッチされて、引退される年、全国代表者会議という場で全国の生長の家幹部に向かって、「今まで私(清超先生)が講習会で講話させて頂く中で学ばさせて頂いた事は数限りなくありました。有り難うございました。」と深々と全国幹部を合掌礼拝されたのである。

 私は現在、生長の家地方講師として毎月、教区内の各地域の誌友会に出講させて頂いている。出講は何十回やっても、毎回が真剣勝負である。自分の生命以外なにものも頼るものが無いからである。
 さて、私は以前、ある誌友会に出講が決まっていたのであるが、私はその誌友会に出講に行くのが、非常に気が重かったのである。出来れば出講したくなかった。それはその誌友会の会場リーダーさんが正直、苦手な人であったからである。
 私はその人から苦い思いをさせられた経験があったのである。それで気が進まない中、講話の準備を進めていたのであるが、ある時、はっと気がついた。これは相手の生命を拝む行であると。
 私はその人が苦手だ、悪い人だと何となく思っていたがそれは私の迷いであり、その人は悪い人ではなく、神の子で素晴らしい人であるのを私が勝手に色眼鏡で見て、悪い人だなんて思っていたのであって、その人の開催する誌友会に出講に行くという事はその人の生命の実相を拝む修行をしに行く事であると思い直す事が出来たのである。
 そうしたら、気持ちがすうっと楽になって、準備が進み、出講当日も実に気持ちよく講話をする事が出来た。その会場リーダーさんも大変、親切に行き届いた司会をして下さった。私はこの時、本当にこの世に悪い人は居ないのだなと実感し、講話は相手を諭して、救ってやる行為ではなく、既に救われている神の子の相手の生命を拝む行であると思いを新たにしたのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-26 13:26 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/6632032
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by うっち~まま at 2007-11-26 20:54 x
>>相手の生命を拝む行であると

派遣が沢山あるということは、拝ませて頂く回数が増えることで、ありがたいことですね~。私も雅春先生のお話しを伺い、真似をして、行く前に拝み、祝福するようにしています。すると、緊張はやっぱりするけれど、参加された方々が素晴らしいと思えるし、抱きしめたいほど愛おしく感じます。
Commented by koujihori at 2007-11-27 10:02
うっち~まま様

 「抱きしめたくなる」とは素晴らしいですね。
 ところで僕は今回、学ばせて頂いた事は相手を拝むのも内側からの神様の導きでさせて頂くのだなあという事でした。今回、拝ませて頂いた相手の人を拝む事が出来たのも出講という機会を神様に与えて頂けた事がきっかけだったのですから。
<< 赤ちゃんに殴られる 神の国は我が内にあり(2) >>