悟るということ

 我々の実相は神の子である。肉体ではない。肉体や現象は我々の本体ではなくて、我々の表現体であり、我らの心の反映に過ぎない。従って、我々は真理を悟り、人間は肉体ではなくて、行き通しの生命であり、それは完全円満で無限力であると悟れば、その認識が肉体に現象に反映する。
 要するに現象というのは具体的な存在ではなくて、それは我らの認識の反映に過ぎないのである。それを称して、生長の家ではこの現象を我らの心の影とも言い、またこの現象世界は神が直接、作ったものではなくて、我ら人間の心が造ったものであると説いているのである。

 さて、それでは我々人間の人生の目的というものは何かと言ったら、実相の完全円満さを現象や肉体に表現する事にあるとされる。その為に一所懸命祈ったり、聖典を読んだり、愛行したりするのである。しかしながら、その事にこだわって、まだ良くならんか、まだ治らんかとこれでもかこれでもかと信仰したり、愛行するのではそれは病気とか問題を心でつかむ事になるから却って、やればやるほど実相が出て来ないという事になる。
 また、逆にちょっと信仰して、肉体の病気が治ったり、家族の問題が解消したりして、それで有頂天になるのもそれも現象にとらわれているのである。現象が良くなる事で事足れりとすれば、生長の家の教えの通り、それは神を信じているのではなくて、物を信じているのであって、本当の信仰ではない。
 現象が良くなったからと言って、それで生長の家の役目は済んだと言って、生長の家の信仰を捨てるが如きは本末転倒も甚だしいし、また信仰を持続するにしてもそれが現象の良さを保つ為のものであるならば、現象はゆらゆらと移り変わるものであるから、現象の良さに立脚した信仰は現象と同様にゆらゆらと不安定なものにならざるを得ない。

 要するに真に実相を悟る、真理を悟るという事は現象に実相の完全円満さが顕し出されている事を悦ぶ事、即ち現象に実相の完全円満さを求める事にあるのではなくて、今、このままで現象が如何なる状況であろうとも実相は完全円満であって、そのままで良いという事を悟る事なのである。

 我らの実相は完全円満なる神の生命であり、それは完全円満なるが故に内側から自ずと出て来るのである。人間は神の子であるという事はそういう事である。その過程ではうだつの上がらない事、失敗はいくらでもある。現象的には悪い時はいくらでもあるのである。しかし、そんな事とは無関係に人間は今、神の子であり、尊いのであり、現象が如何なる不完全な状態でもそれは我らの実相生命そのものが自ずと出て来る為の一過程なのである。その事を悟るという事が実相を悟るという事であり、真理を悟るという事である。

 そして、この現象は我らの心、認識が映っているのであるから、実相完全円満の悟りのある所、それが必ず現象に投影されるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-12-12 13:17 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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