生長の家の信仰について

 生長の家の信仰の根本は人間は神の子であり、完全円満であるという事である。そして、それは自分の中に無限があるという事であり、又、神の国があるという事である。と言うことは自分の中にこそ真理があるという事である。

私は生長の家の地方講師として、毎月、県下の色々な誌友会に行って、講話をするが、以前は講話をする時は事前に原稿を完璧に作って行って、それを何度も読んで、自分の頭に叩き込んで、本番の講話に臨んだものである。しかし、こうしたやり方だと話と話のつなぎの部分でちょっとしたきっかけでど忘れしたりすると頭が真っ白になってしまい、何も話せなくなったりした経験がある。
 そうした経験を積んでいる内に生長の家の講話のネタは自分の中にあるという事が段々と分かって行った。そうしたら現在は講話前にどんな話をするか、一応、骨子を考えて行き、簡単な原稿を作るが、実際の講話する時になったら、その原稿さえも私は捨ててしまう。そして、内側からのインスピレーションのままに話すのであるが、これが自分でも驚く位、スラスラと後から後から真理の言葉が出て来るのである。それは私の中に既にある生長の家の真理が自ずと出て来る事で成される事である。それは別の言い方をすれば、講話は神様がして下さるという事になるが。

 という事で私は生長の家の信徒であるが、その生長の家の真理は私の外にあるのではなく、私の中にあると自覚しているのである。それが神の子の自覚でなくて何であろう。私は生長の家の真理に限らず、仕事でも趣味のテニスでも分からない事を他人に頼って聞いて廻るという事を一切しない。 それは自分の外にではなく内に全ての真理、知識があると自覚しているからである。その様にしているとやっている内に分かって来るし、また良き指導者が現れて、色々と教えてくれる。それは私が自分の外に真理を求めたのではなく、私の中にある真理が良き指導者を通して、私に与えられるという形で自分で出て来たのである。

 さて、「無門関」の中に「仏に遭うては仏を殺し、師に遭うては師を殺し、親に遭うては親を殺し・・・」という所が出て来る。これを言葉通り受け取ってしまったら恐ろしい事になるが、これは要するに現象の師も仏も親もナイという事である。現象即ち外の世界に神とか仏をアルと思って求めるなという事である。全ては神の国即ち、実相として自分の中にあるのであって、それを本当に自覚した時、本当に心の底から親が有り難い事、師が尊い事、仏が素晴らしい事が分かり、自ずと満腔の感謝、報恩をしたくなるという事である。

 生長の家の真理を内に自覚している者は現在の教え親である生長の家の総裁・副総裁が真に尊い事が分かり、自ずと中心帰一したくなるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-01-30 12:31 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)
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