後悔先に立たず

 我々の肉体を含む現象は過去の念の蓄積が今、波動となって、表面に出て来たものであり、真実の存在ではない。だから、例え、それが肉体的に調子が悪くても、そんなものは現在の自分が悪いのではなくて、過去の自分の念の残像に過ぎないのであるから、引っ掛からず、放っておけば良い。そして、現在の自分の実相が完全円満で無限力である事を素直に受け取り、悦んでおれば良いのである。

 さて、その現象であるが、それは肉体の調子だけでなく、精神的な調子もあり、それも過去の念の残像である。そして、その精神の為せる自分の行動とか言動も実は過去の自分の念の残像なのである。だから、自分が衝動的に何かのきっかけで言った失言、やった失敗は現在の自分の罪ではなくて、過去の念の残像の為せる事であるから、そんなに後悔しなくて良いのである。(これはあくまで信仰的な事であり、法律的に触れるような事をすれば、その人は審きを受けなくてはならないのは言うまでもない)
 そうした失敗、失言をしてしまったという時はその後処理とか、修正は神様に全託するのが良いのである。そして、「神様、後はお願いしまーす。」と本当の本当に神様にお任せして、自分の肩から全ての重荷を降ろしてしまって、神様に全部お預けするのが良いのである。そうした時に、自ずとものごとが展開して、事態は収束する。そうした流れの中には自分自身も入っているのであるから、何となくああしたい、こうしたいという内側からの催しに従って、動けば良い。しかし、それはあくまで自分を通して神が働いているのであり、露ほども自分が動く部分は無くて良い。

 そんな時に「自分が蒔いた種だから、自分が何とか収束させなくてはならない」なんて、焦ると事態はますますこぐらかって、収集がつかなくなる。何故ならば、それは我(が)の存在を認めた事になり、我(が)がしでかした失敗もアルと認める事になるからである。アルと思えばこそ、またそれを無くそう、良くしようと我(が)が空回りするのである。そんな事をすれば、また新たな悪業を自己の潜在意識に刻印する事になる。
 
 しかし、本当の真理を言えば、我々が生きているのは我々が生きているのではなく、神が生きているのである。失敗や失言みたいに表面的に見えても、それが長い目で見て、結局、良い結果、実相顕現につながるのである。我(が)が生きていて、それが上手くやったり、失敗したりするなんて思う事が迷いである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-02-04 12:58 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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