神業

神業という言葉がある。あの選手のあの技は正に神業だとか、あの職人のあの技術は実に神業だとかそういうものである。

 神業とは正に文字通り、神が直接行う業(わざ)である。そこには我(が)の混入は露ほども無いのである。そして、真実の愛も神の愛である。親の愛が尊くて有り難いのはそれは神の愛が具体的に現れたものであるからであるとは聖典「生命の実相」にある通りである。
 
 従って、実相顕現とは我(が)がするものではなくて、神が自らの力で顕れるという事に他ならないのである。そして、それが実相独在という事であり、そこにこそ感謝がある。感謝という事は神に直接生かされ、導かれている事への悦びの表明である。

 実相は完全円満であるが、それを顕現する為には私が心のレンズを神に合わせなくてはならないとか、私が訓練を積まなければ、立派に強くなれないとか、私が心を清めなければ、神は顕れない、又は病気も治らない、そして、私があの人に生長の家を伝えてやらなければあの人は救われないなんて言うのであったら、偉いのは私であり、神ではないという事になってしまうのである。
 そこには感謝は無い。あるのは私がこれだけやった、やってやったという傲慢と恩の押し売りがあるだけである。そして、私があの先生に救って頂いたから、恩返しをしなければならない、私が生長の家に救われたから、恩返しの為に講習会の券をこれだけ売らなければならない等々の事になって来るのである。そんな事をやっていれば、永遠に恩返しに縛られなければならない。本当の感謝とか恩返しとはそんなものではない。

 それは神の他に我(が)、肉体、現象の存在を認めているのである。そこには真の神に対する感謝も無ければ、神業という事の体験も無いのである。
 実相独在が生長の家の神髄であり、真理である。それは吾らは今、そのままで無条件に神に直接生かされ、導かれ、守られているという事であり、神の業は神御自身で直接為されるという事であり、それは実相は自分で出て来るという事であり、私の、我(が)の頑張りとか努力とかが要らないという事である。
 その事を認識する事が実相を悟るという事、神の国は我が内にありという事に目覚める事である。そうした時、自分の自覚の反映である現象世界に神を見出すのである。
 
 そして、その事の悟りも自分で出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-02-05 12:29 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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