生かされている。

 人間はパニックになったり、慌てる時というのはどういう時かと言えば、喫緊の問題が出て来た時、どうしたら良いか分からなくなる時である。それはどうしてそうなるかと言えば、自分でこの問題を何とかしなくてはならないと思うからである。しかし、自己の我(が)の力などたかが知れている。また、常に自分で気を張って、悪くならない様にしなければならないというのは途轍もない不安である。

 以前もここでご紹介したエピソードであるが、宇治の練成会にある男性が練成を受けに来た時の事である。その男性は悲惨な運命に打ち砕かれ、人生がほとほと嫌になっていたそうで、座談会の時、もう自分はほとほと生きるのが嫌になったと吐露したそうである。その時、その練成で指導をされていた榎本恵吾先生は「僕も嫌だよ」と仰ったのである。

 そもそも人間は生きるのではなくて、生かされるのである。その事に目覚める事が悟りの道、常楽の道である。それが生長の家の神髄である。生長の家の招神歌にはこの事が明確に歌われている。「吾が生くるは吾が力ならず天地(あめつち)を貫きて生くる祖神の生命、吾が業(わざ)は吾が為すにあらず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神の権能(ちから)」と。

 自分で生きると思うから焦るのである。どうしていいか分からなくなるのである。全ては神によって生かされているのである。問題も神によって消されているのである。吾れの信仰も神により支えられているのである。私は要らないのである。それが全託という事であり、実相独在という事であり、そこに感謝がある。

堀 浩二
by koujihori | 2008-02-20 12:43 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented by 長瀬 祐一郎 at 2008-02-20 21:31 x
合掌 ありがとうございます。
 いつもながら素晴らしい記事をありがとうございます。
 私も「「招神歌」には毎日元気をもらっています。神想観の時以外にも、何気ない時にでもこれを唱えると「ああ。慢心してはいけないな。自分は生かされているのだ、ありがたい」と謙虚になれ、そして感謝の心で満たされます。そして素直に神に全托する気持ちになれます。
 「招神歌」といえば・・堀先生の艶やかな声での招神歌は本当に素晴らしいですね。
Commented by koujihori at 2008-02-21 08:57
長瀬さん

>「招神歌」といえば・・堀先生の艶やかな声での招神歌は本当に素晴らしいですね。

 有り難う御座います。カラオケで鍛えてます。(招神歌はカラオケでは歌わないですよ(笑))
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