世の中、良い人ばかり

 私はここで何回か申し上げたが、他人を審く性質が非常に強く、この人間は赦せんという憤りを抱える事が多かった。それは生長の家をやった事で却って、強くなっているとも言えた。何故ならば、生長の家をやると人間は本来こういうものであるという基準が出来、それが途轍もない高い基準であるから、それでもって、周囲の人間を審いてしまうのである。

 最初から人間なんて、所詮、凡夫であり、下らない生き物だと決めてかかれば、そういう人間が目についても、そんなに気にならないのであるが、人間は本来、素晴らしいもので気高い生き方が本当であると思うと、こうでなくてはならぬという基準が出来て、それで周囲を審くのである。

 だから、善人は心が狭く、いつも人をそして自分自身も審くので、病気になり、短命であると言われるのである。
 私はそういう心の狭い善人であった時期がずうっと続いていたのである。しかし、以前のブログでも申し上げたが、私はそういうどろどろの他人を審く、憤る心が自分にあるからと言って、別段気にしていなかった。そんなものは実在ではない単なる過去の迷いの現れに過ぎないのであり、もやみたいなものであると知っていたからである。生長の家をやると自分の迷いとか恐怖とかそういうものに引っ掛かり、それを無くそう、何とかしようと焦る事もあるが、榎本恵吾先生はそんなものは本来存在しないモヤみたいなものであるから、放っておいて、今、神の子であり、神に生かされているという事を悦びなさいといつも仰っていた。私は実にそうして来たのである。だから、腹が立てば、相手を怒鳴りつけた事は一回や二回ではない。私は「そのまま」でいたのである。

 しかし、最近、私の心境に変化が訪れてきた。それは余り、他人の悪が気にならなくなって来たのである。要するに生長の家の真理では悪は本来存在せず、自分の心の迷いの映しに過ぎないという事であるから、そんな非実在のものにきゅうきゅうとする事は無いのであるが、その事が私の実感として、いよいよ出て来たのである。

 要するに悪とか悪人に憤る、審くというのはその悪をアルと思うから、それを何とかしようと心でつかむからそうなるのである。しかし、そんなものは単なるこちらの迷いの映しであり、本来存在しないと本当に実感されたら、そんな相手の悪に引っ掛かる事は自ずと無くなるのである。
 私は最近、どうも本当にそういう心境になれて来た。要するに実相の眼で見れば、相手が如何なる現象を現していようとそんなものは存在せず、今、そこにいるのは善のみの神の生命に他ならないのである。
 それが分かってきた私は相手の悪を審く事が自ずと無くなり、相手の良い面のみを相手にして行こうという気になって来た。誠に有り難い事である。

 それはどうしてそうなったかと言えば、私が自分の迷いをどうにかしようとして、自分の迷いを心でつかまなかったからであると思う。それと同時に実相はやはり、自分で出て来るとしか言いようが無い。

堀 浩二
by koujihori | 2008-03-07 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented by 長瀬 祐一郎 at 2008-03-07 22:06 x
堀 浩二先生
合掌 ありがとうございます。
本日の記事拝読し、しばらく言葉を失いました・・というのは、私も大変“他人を審く性質”が以前は強く、生長の家と出会ってからもしばらくはそのままでした。むしろ、かつての先生の様に、強くなった感じすらありました。。
その後私は段々そうした、他人を審く、という事が面倒臭くなり、現在は忙しくあるせいもあって殆ど「みなさんご自由に」という状態ですが(笑)
単なる忙しさからの偶然ではなく、私も実相が顕れてきているのかなあ?などと、おこがましくも嬉しくならせていただきました。
                             感謝再拝
Commented by koujihori at 2008-03-10 09:01
長瀬さん

 そうですか。長瀬さんがそう(実相が出て来ている)思われるならそれはそうですよ。
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