実相は自分で出て来る(10)

 「実相は自分で出て来る」という事は榎本恵吾先生から教えて頂いた事である。それは生長の家の人にはちょっと新鮮と言うか、耳慣れない言葉に聞こえると思う。しかし、生長の家の真理をよくよく突き詰めれば、実相は自分で出て来るという事にならざるを得ないのである。

 自分以外に何か別の存在があるのであるならば、吾らの実相は自分で出て来るのではなくて、その別の何ものかに引き出されるという事にもなるであろう。自分以外に自分より優れた存在があって、そこに尊いものがあると言うのであれば、自分は無限で完全円満という訳には行かない。
 自分以外に自分の完全円満さを発揮するのに助けを必要とするのであるという考えは自分の中に全てがあり、それが無限であり、完全円満であり、それ即ち、そのままで内側から無限の神に生かされ、導かれ、支えられているという事にならない。
 自分という完全円満の存在ではない存在があって、それを補い、救う為に外側の自分より優れた有り難い存在として、生長の家を考えているのであるならば、そういう発想をする事自体がもう生長の家の真理と矛盾する事になってしまう。
従って、極端な事を言えば、生長の家さえも自分と離れた別のものではなく、自分の中にあるもの、別の言い方をすれば、自分の中の無限が生んだもの、又はその反映と言えるのである。

 自分というちっぽけな存在と別に偉大な生長の家の教えや谷口雅春先生という偉大な方がいらっしゃって、その救いと導きが無ければ、自分は駄目なままの存在であるという事であるならば、それは生長の家の教えに反するし、そう思っていれば、自分が生長の家に救われたとして、その恩返しにいつまでも縛られなくてはならないという事にもなってしまう。

 そこには悦びの運動、愛行なんて無いのであり、常に恩返しに縛られた苦行があるだけである。恩返しが出来る人であれば良いが色々な事情により、恩返しが出来ない人もいるのである。恩返しが出来ないのが罪という事ならば、生長の家を知るという事はその人に取って、重みになるだけで悦びなんて無いのである。

 全ては自分の中にあるのである。神の国は我が内にこそあるのである。全ての全てが自分の中にあるのである。それが嬉しくて、自己表現したくて、自分で出て来たのがこの吾々の人生であり、それが実相が自分で出て来るという事である。その実相が自分で出て来るという事が色々な人生学校の学びを自ら作って、そこで自己訓練して、自分で自分の実相を探り当てて行くという過程である。
 偉大な師や教えというものは自分以外に離れて存在しているのではなく、元々自分の中の無限の中にあったのである。それが展開して、偉大な師となり教えとなって、吾らを導くのであるが、それは偉大な師や教えを通して、自分の中の無限や神が自分で出て来たのである。吾らと離れた存在というものは如何なるものであっても、存在し得ないのである。それが吾らの実相が自分で出て来るという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-04-03 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(4)
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Commented by 三谷文人 at 2008-04-06 21:46 x
 有難う御座居ます

 堀さんの御文章を自分自身の悟りとして、有難く拝読させて頂きました。
 生長の家の御教えが自分の外にあって、それを自分の中に取り入れていくという姿勢では、悦べる時なんて永遠にやって来ないですね。
 初めから自分の中にある真理なのだ、という自覚を持って、御文章に接すると、その行間から「今、悦んでいいんだよ」という声が聴こえてくる様で、自分自身を拝みたくなります。
Commented by koujihori at 2008-04-07 09:57
三谷さん

 三谷さんはいつも僕の伝えたい事を受け止めて下さるので本当に有り難いです。
Commented by SUZU at 2008-04-07 10:16 x
合掌ありがとうございます。
本当に心がス-ッと楽になる御文章です。
Commented by koujihori at 2008-04-07 13:01
suzuさん

 有り難うございました。そう言って頂けると本当に嬉しいです。
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