悪かったと分かったら罪は消えている。

 生長の家では罪とは本当の実在ではなく、それは包み(つつみ)が詰まって、罪(つみ)になったとして、本来、完全円満の実相を覆い包んでいる状態が罪であると教えている。

 吾々は毎日、生きていて、色々な過ちを犯す。先日も私は野球の試合の日程を間違えて、チームの皆に迷惑を掛けたが、これは別に誰も傷ついたり、死んだ訳でも無いから、私の責任は重大だが、大した事無いとも言える。しかし、中には自分の不注意による事故で人を傷付けたり、もっとひどい場合は死なせる事だったある。また、女性なら、命の尊さをまだ知らない段階の人は子供を堕ろす事だってある。

 そうした過ちを吾々は知ってか知らずか犯してしまうのである。しかし、生長の家では罪はナイとはっきり教えている。要するにそれは吾等の迷いの影であると言うのである。即ち吾等は今、このままで完全円満であり、無罪清浄の存在で罪を犯しようのない尊い存在である。であるから、聖経「甘露の法雨」には「此の世界には犯されたる罪もなく、報いらるべき罪もなきことを教えよ」とあるのである。
 それなら罪がある様に見えるのはどういう訳かと言ったら、それは吾等の迷いの反映に過ぎないというのである。それは吾等が今、そのままで完全円満であるという事を悟らず、この世には悪も矛盾も問題も罪もアルと心でつかみ、それを自らの念の力で現象世界に投影して、罪即ち実相を覆い包んでいる状態を仮に仮作しているというのである。要するに本当の自己及びこの世界はたった今、罪も問題も全く存在しない、完全円満な実在であり、世界であるという事を悟らない事が本来の完全円満さを包む事、即ち罪であるのである。

 従って、吾等が罪ナシ、問題ナシと悟れば、自己の罪なる映像はたちまち消える。そして、それは過去も現在の自分の念の反映であるから、過去の罪も消えるのである。
 しかし、ここで間違えてはならないのはそうした完全円満の実相を悟らずに現象の罪があると迷ったままで罪はナイと生長の家で言っているから自分は何をしても良いのだ、自分の過去の罪も何の責任を取らなくていいのだなんて思う事は見当違いも甚だしいという事である。

 そして、自己及びこの世界に本当に罪がナイ、完全円満であると分かれば、自分に本当の自信がつくから、自己の過ちも素直に認めて、反省し、謝罪する事が出来るのである。

 さて、この世界には因果の法則と言うものがあり、自己が相手に及ぼした事はいずれ自分に返って来るという法則がある。だから、自分は過去にこれだけ人を傷付けた、子供を堕ろしたという人は例え、自分が完全円満であると分かってもいつかはその報いを受けなくてはならないと恐怖するかも知れない。しかし、そんな心配は無用である。何故なら、罪は悪かったと分かったら消えているものであるからである。要するに自分に起こって来る事は自分の心を反省する為に起こって来るのであるから、自己が罪を犯して、その事に気がつかず、それで良いと高をくくっている内はその人に反省の機会が無いから、それが因果の法則という事で自分がその罪の報いを得るという事になるのであり、その罪の報いを得る事でその人は自分の心を反省し、清められる事になるのである。しかし、自己が自分の犯した罪が悪かったと心から反省したという事はその人の実相が出て来たから、過去の自分が間違っていたと分かるのであるから、その瞬間その人の全ての罪は赦され、そして、罪のナイ世界というものを体験出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-05-12 12:40 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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