とらわれない

 昔から「馬鹿の一つ覚え」という言葉がある。愚かな人は臨機応変に対応出来ないで一つの型にはまってしまい、融通が利かなくなるのである。例えば、嘘はいけないという一つの道徳律がある。勿論、この事自体は正しいが、この事に凝り固まると、駄目で戦争などしていた場合、敵に味方の情報を正確に嘘無く、教えるなんて事をしていたら、それは大変な事になる。

 生長の家の生き方でも色々なものがあり、大胆に思い切って、生きるという事も必要だが、細心の注意を払う事も大事である。思い切って、自己を捧げる勇気も必要だが、易しい所からやって行く事も大事である。人間は皆、それぞれのなくてはならない個性があり、他の人の個性や天分をうらやんではならないが、吾々一人一人は無限であり、その才能には限りが無く、ありとあらゆる能力が備わっている。

 要するに生長の家の真理や生長の家の生き方は文章化されると一見、お互い矛盾した様に感じる事があり、さっき、こう言ったかと思うと、今度は全く逆の事を言う様に感じる事もある。それでそれを文字通り、受け取ると訳が分からなくなる事もある。

 しかし、それは生長の家の真理というのは本に表された文章そのものではなく、そうした数々の真理の文章、言葉、それはおそらく無限であるのであるが、その無限の真理の言葉の出て来る大元のこの現象世界の言葉を超えた、無限の真理のコトバが真理そのものであるという事、そして、それこそが吾々一人一人の本体の生命であり、それが神において、一体なのであるという事を悟らないからそうなるのである。

 その無限の真理の本体から、その時、その場、その人に応じて、臨機応変に出て来るのがそれぞれの真理の言葉や生き方、展開の仕方である。それらは文字や言語に表せらた場合にはお互い、矛盾した反対の様な事を言っている様に見えるが、その奥の共通した本体から観れば、お互い、矛盾した所は一つも無い。

 吾々は生長の家の聖典やその他、色々な真理の文献等に表されたものは無限かつ無形の真理の表現された一つ一つの形態であると知り、決して、その言葉にとらわれる事無く、真理そのものを把握しなければならないのである。そして、自由自在に人事処に応じた縦横無尽の働きをし、言葉を発さなくてはならない。その為には自分をただのでくの坊と思って、生長の家の本にただ、生き方を模索するとか、頼るという事ではなくて、自分の中に真理そのものがある、否、更に進んで今、そのままの自分が真理そのもの、神そのものであるという事を悟らなくてはならないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-06-09 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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