生長の家は生きている

 現在の生長の家が昔と運動の展開が変わったと行って、非難したり、それで辞める人がいる。しかし、本当に優れた教えというものはその時の人類を救う為に時代に応じて、変幻自在にその展開の仕方が変わってしかるべきである。

 そもそも団体や組織というものは創始者が非常に独創的で優れていても、後年になって、組織が大きくなり、それを受け継ぐ後継者が創始者の独創性を忘れてしまって、組織維持の為のみに汲々として、その為、形骸化する事が多い。イエスが生誕した頃のユダヤでは当時のユダヤ教の教えがあったが、それは形骸化してしまっていて、聖書にこう書いてあるから、こうしなければならないとそうした多くの戒律が一人歩きしてしまって、その形の戒律にその頃のユダヤの人達は縛られていたのである。
 それをイエスが出現して、そんな形骸的戒律に縛られるのではなくて、内なる神から直接来る自由なインスピレーションに従って、多くの人達の魂を解放し、病を癒して行ったのである。それに対して、当時のユダヤ教の長老みたいな存在がパリサイ人(びと)という人達でこれがユダヤ教の戒律を厳格に守っていて、例えば、日曜日は安息日だから、決して労働をしてはいけないという事に凝り固まってしまっていて、イエスが日曜日に病人を癒したのを見ると「あいつは安息日に人を癒すという労働をした」と言って、イエスを激しく非難したそうである。

 そういう風に宗教やその他の組織でもそれが年月を経て、代替わりするに従って、段々形骸化して来て、その本質の生命が失われていくのが普通である。しかしながら、生長の家はそんな事は無く、その時代に応じて、変幻自在に必要な働き、運動の展開の仕方をして行くのである。生長の家は代を重ねてもそれは決して、形骸化する事無く、正に生きた教え、運動であると言えるのである。
 組織の中心者である総裁・副総裁先生が最も純粋で柔軟な心をお持ちになって、神の御心を聞き、その通りに具体的運動が展開されるので、生長の家は時代に応じて、どんどん形態や方針を変えるのである。だから、生長の家では生長の家の大神―総裁・副総裁―御教えという流れが大切であると言われるのである
 
堀 浩二
by koujihori | 2008-06-17 13:24 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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