神を実感する。

 榎本恵吾先生が仰っておられた事だが、谷口雅春先生が求めた神は「自分の心が救われないままで業が清まりきらないままで無条件に救われる神が欲しい!」という事であったそうである。雅春先生は大本教に居らっしゃた頃、最後の審判の時には心の清いもののみが生き残れるという教えを信じて、修行されていたが、それなら自分は最も救われる資格が無いと悩み、恐れおののいておられたのである。そして、その後の血の滲むような求道の末、遂に無条件の救い、今、ここそのままで一切の罪ナシ、悪ナシの神を発見された。

 私は幼い頃から生長の家に触れていて、高校生練成を受け、その後、青年会に入って活動をしてきた。そして、自分ほど生長の家をやれているものはいないと傲慢になっていた。しかし、それは我(が)の間違った信仰であったから、破綻する時が来て、私は会社の仕事が続けられなくなった。私は光明化運動をやりながら、完全に人のためという心になれず、利己主義に負け、それで自分の心を清める事、保つ事に失敗し、神の道から転落したとその時はそう思っていた。要するに生長の家をやるにはきちんと行をやって、愛行をやり、自分の心を清め、神らしく保たなくてはならないが、私はそれに失敗し、後一歩の所で利己主義に負け、神の道から墜落した生長の家の落伍者であると思っていたのである。
 それで、私は宇治の生長の家の道場に行く事になり、そこで一般練成を受けた後、道場に残り、長期生、即ち研修生をやる事になったのである。その時、私は既に37歳で妻子も仕事もあったが、それらを家に残し、宇治で研修生をやる事になった。その時の私の気持ちと言ったら、これは表現のしようが無い。私は今まで生長の家の優等生で居た積もりで社会的地位や立場もそれなりにあると思っていたから、道場の研修生の古びた寮に入る事になった時、本当に自分は奈落の底に落ちたと思った。
 しかし、そこで練成会のテキストである「あなたは無限能力者」という雅春先生の御本を何気なく手に取って見ると、そこには「種というのは一度、地面に落とされてからでないと発芽する事が出来ない。箱に入れられて、高い棚の上に置かれたままであれば何時まで経っても発芽する事は無い。だから、自分が奈落の底に落ちたと思った時はそれはこれから芽が出て、飛躍するチャンスである。」と書いてあった。正にその時の自分にピッタリの御文章であった。その時、私は自分の心に関係無く無条件に神は直接、導きを下さり、救って下さるという事を実感したのである。
 その時が私が神を観念的にではなく、実際的に自覚し出した始めである。「ああ、自分は利己主義に負け、心のコントロールに失敗しても神はそんな事に関係なく、自分を現に直接、導いて下さっている」と自覚したのである。その後、私は榎本恵吾先生に導かれ、完全に魂が救われ、社会復帰し、現在に至っているのである。

 神を実感する事が大事である。それは自分がした事によって、どうなるという神ではなく、自分の心が整わないままで救って下さる神である。それを実感した時、悟りが始まる。

 自分のした事でどうこうなる様な神なら、それは本当の神ではない。自分が心を清めたら自分を生かしてくれる神で心を清める事に失敗したら見放す様な神であると思う事が迷いなのである。自分が何をしてもしなくても今、このままで無条件に救ってくれ、生かしてくれる神が本当の神であり、それを悟る事が実相独在の悟りであり、今、ここそのままで神の国、実相世界である事を観ずる事であり、それが神想観の神髄である。それはイメージトレーニング的に念ずるからその印象が段々深まる様な観念的なものではなくて、現に自分を今、完全に生かして、守って下さる神を実感する事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-06-19 13:25 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented at 2008-06-19 18:10 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by koujihori at 2008-06-20 09:24
シークレットコメント様

 あなた様も神を実感する事が出来たのですね。素晴らしいです。それが最上の悦びですね。
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