迷い

 生長の家では迷いは本来無いと教えている。迷いは無いというのは実相の話で現象的には吾々はいくらでも迷う。しかし、現象はナイのであるから、迷いもナイのである。

 迷いの最大のものは何かと言ったら、それは自己の生命の実相を悟らない事である。その迷いから色々の不幸とか災厄が出て来る。そして、この現象世界というのは本当に実在する世界ではなくて、吾々の認識が映っている世界である。要するに自分がこの世界、それは本当の実在する世界であるが、それを如何に観るかという事、そして、本当の自分を如何に観るかという事の認識が今、自分の周囲に投影されて、それをこれが本当の世界であると吾々は認識するのであるが、それは単に自分の認識が映し出したスクリーンを自分でこれが実在する本当の世界であり、自分であると思っているのに過ぎない。
 ところで、本当の本物の世界及び自分であるが、それはどこにあるのかと言ったら、今、ここにあるのである。そして、本当の自分とは正に今のそのままの自分である。しかし、それは現象ではない。現象は何回も言うが、自分が今のそのままの世界、そのままの自分(これは今、そのままで完全円満である)を如何に観るかという認識が映っているのである。
 従って、今、そのままで完全円満な世界であり、自分であるが、自分の心のレンズが歪んでいて、それを真っ直ぐ観ていない場合にはその今、完全円満である自分及び世界が歪んで不完全に自分に認識されるのである。それを迷いと言うのである。

 そういう迷った、歪んだ心のレンズで自分及び、世界を観るとそのままで本来完全円満で皆、平和で健康な何一つ間違いも罪も無い自分であり、世界であるのに、それが戦争をしたり、病気したり、間違ったり、罪を犯したりするものに見えるのである。
 そして、自分の過去にこれだけの間違いがあるとか自分の人生の選択は間違っていたのではないかとあれこれ悩む。そして、それを購おうと思ったり、間違いを何とか修正しようとかするのである。それを又、迷いと言い、またそれを我(が)のあがきとも言うのである。

 私は榎本恵吾先生に特にきつく言われたのは人間は神の子であるという事は自分は神であると言う事だと言う事であり、それは取りも直さず、自分の人生の一挙手一投足、思想も全て、何時如何なる時もそのままで神であったという事である。この時は神でなかった、間違っていたなんて事は無いのである。それが実相を悟り、正しく認識するという事である。間違っていた、罪を犯したなんて言う風に自分に自分の人生が感じられるのは自分の心のレンズが歪んでいてそう感じられるに過ぎないのである。

 それが分かった時、吾等は自分は神に百%生かされていたと分かる。その時、真に感謝と悦びが湧いて来る。

堀 浩二
by koujihori | 2008-07-01 12:33 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented by 久都間 繁 at 2008-07-02 18:09 x
 堀浩二 様

 合掌、ありがとうございます。
 「迷い」についての、最後の一節を読んでいて、榎本先生の謦咳に触れた思いがしました。触発されたことを私のブログに書かせていただきました。
Commented by koujihori at 2008-07-03 09:49
久都間様

 貴ブログに拙文を引用して下さり、誠に有り難う御座いました。私が時折、フッと思いつくことをしたためた文集を数人の方に渡していて、榎本先生にも毎月、お送りさせて頂いたのですが、その文章がもし間違った事を書いていて、それが他の人をミスリードするかも知れないと時々思う事がありますと先生に申し上げたら、先生はきっとした表情になられて、ご紹介した先生の御言葉を賜りました。
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