講話とは相手を拝む行

 以前、ここでも書かせて頂いたと思うが、谷口雅春先生は(もちろん、清超先生も雅宣先生も)、講話を始める時、最初に受講者に対して、深々と「有り難う御座います」と合掌、一礼される。
 生長の家では挨拶する時、「有り難う御座います」と合掌するのが慣わしになっているので、先生もそうされていると何となく思っていた。しかし、ある霊眼の啓けた人が雅春先生の講習会を受講された時の事であるが、いつものように雅春先生が深々と受講者に合掌、一礼されてから、その受講者が何の気無しに後を振り返って見ると、受講者が悉く、菩薩の姿をしていたと言うのである。
 先生の合掌はだてではなかったのである。本当に受講者の生命を拝み、賛嘆されていたのである。

 ある時、私は生長の家の組織の人とある事が原因でもめた事がある。その時の私の憤慨の仕方はかなりのものがあった。ところがである。私は地方講師として、毎月、出講しているが、ある月の出講先は何と私ともめた相手が誌友会の会場リーダーさんだったのである。

 私はこんな会場に出講に行くのは嫌であったが、神様の御用に私情を交えてはいけないと思って、そこの会場に出講に行ったのである。
 そうしたら最寄りの駅に出迎えに来てくれたのはその会場リーダーさんであった。会場リーダさんは今までの事は何事もなかったかの様にニコニコして出迎えて下さった。そして、車で会場まで送って下さったが、私は相手に心からうち解けて話す気持ちになれなかった。
 そうして、会場について、誌友会がいよいよ始まった。私はこんな精神状態で果たして良い話が出来るのであろうかとちょっと危惧はしていた。そして、最初に開会の祈りを私が先導している内に何となく、心が落ち着いて来て、そして祈りが終わって、さて、これから、いざ相手に向かって講話を始める段になって、理屈抜きでこの相手を赦そうという気持ちになったのである。それは正に理屈抜きであった。どうしてそうなれたかは良く分からないが神様がそうして下さったとしか言いようが無い。別の言い方をすれば、講話は相手を拝む気持ちでないと絶対に出来ないという事でもある。

 そして、続いて悟ったのは世の中には色々な考え方を持っている人があり、それだからと言って、自分と違う考えを持っている相手を自分の価値観で頭から否定してはならないと言う事であった。政治的な事とか生長の家の運動に対する考え方が自分とは違うからと言って、その相手を頭ごなしに否定してはならないのである。
 そんな事を抜きにすれば、この会場リーダーさんも人間的には良い人なのである。それを私は拝もうと思ったし、相手を赦すというのはそれは前述の様に理屈は抜きなのである。
 そういう心になれた時、私は初めて、生長の家の真理の話をまともにする気になれたし、実際、自分でも驚く様な真理の言葉が自分の口から次々と出て来た。

 そして、帰りにはその会場リーダーさんが車で駅まで送って下さって、和解して別れる事が出来たのである。

 本当に生長の家の講話をする即ち相手に生長の家の真理を伝えるという事はそのまま相手の生命の実相を拝む事に他ならないのである。それは人類光明化運動自体が阿鼻叫喚の地獄にいる人類を救う運動ではなくて、既に神により救われている人類の生命の実相を拝む運動に他ならないという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-07-09 13:08 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented by yuko at 2008-07-09 14:40 x
合掌、ありがとうございます。私も先日「赦す」という、私にとっては素晴らしい体験をさせて頂きました。上司と意見が衝突して、何日間かお互い口をきかず、目も合わせない状態でしたが、何日間か経った時、私の中で(彼も今完全円満ですばらしい神の子だ~)という思いになり、赦されたという実感でした。すると次の日に上司の転勤が決まったんです。“久遠の今”に帰ることを悟りました。そして真理のすごさをかみしめました。
Commented by koujihori at 2008-07-09 15:17
yukoさん

 へー、そうですか。yukoさんも理屈抜きの赦しを体験されたのですね。僕は相手と衝突したり、憤慨した時は和解の祈りなど無理にせず、そのままにしておきます。全ては神がして下さるのですから、人との和解も調和も自ずと神様がいつかはさせて下さると信じているからです。

 yukoさんもその様ですね。でも、人を赦せた時、仰る様に自分が赦された気持ちになりますね。また、相手と意見が対立するって言うことは自分は正しくて相手は間違っていると強く思っているからですよね。それも一つの心のつかみ、握りだと思います。そうすると相手はこちらの心の鏡ですから、こちらが自分の正当性を主張すればするほど、相手も同様に相手の正当性をこちらに主張して止まないって事になりますね。
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