真理は神が伝えて下さる(2)

 先週の日曜日、当教区の相愛会壮年層勉強会が教化部で行われた、これは去年の4月より毎月一回、行われており、私は当教区の壮年部対策部長であるので、この勉強会を主催している。勉強会の御指導は教化部長先生や講師会長先生にして頂いており、毎回10名位の参加者があり、非常に信仰的に盛り上がっている。これの勉強会については今年の相愛会全国大会で発表させて頂いたからご存知の方もおられると思う。

 勉強会を続けて行く内にメンバーの中から真理は受けるだけじゃいけない、施さないとという意見が出て、それからは勉強会が終わった後、必ず、駅付近で普及誌の手渡愛行をしている。始めたのは今年になってからであるが、毎回4~5名程度の仲間が愛行に参加して下さっており、誠に充実している。お陰様で当教区の壮年層は悦びの内に確実に将来の相愛会の幹部が育っている。

 さて、先週の日曜の勉強会であるが、私は前の日は地元のテニス仲間と伊豆に一泊のテニス合宿に行っていた。朝9時から夕方5時半までぶっ通しでテニスをやった。とは言っても炎天下であるので交代しながら休み休みであるが。そして、翌日は朝9時半から12時まで又、テニスをやって、そして、昼食をして、その後、私だけ仲間より早く帰って、勉強会の会場である教化部に向かった。そして、会場には勉強会開始前、およそ一時間前に入り、資料を揃え、会場の準備を整え、そして、講師の先生をお迎えして、勉強会を行った。私は司会を務め、講師である講師会長先生の講話を拝聴してから、座談会を行い、誠に素晴らしい充実した勉強会であった。
 そして、勉強会が終わった後、いつもの様に駅頭に出て、普及誌の手渡し愛行をおこなった。今回は私はテニス合宿から教化部に直行したのでいつものように普及誌を家から運ぶ事が出来なかったので教化部の人に頼んで普及誌を分けてもらった。丁度、青年会に沢山、余っているという事で青年会から普及誌を譲ってもらったが、「理想世界Jr版」誌が大部あった。それでも「光の泉」誌とか「白鳩」誌も割合あったのでそれで四人の仲間と一緒に普及誌を道行く人に配ったのである。
 今回は前述の様に「理想世界Jr版」が多く、同誌は割合薄いのでまとめて何十冊と持ってきたのだが、全体の重量の割に部数的にいつもより多かった。これは中々、配り終わるのは大変だぞと思いつつ、仲間と配って行ったが、経験のある方は分かると思うが普及誌を街頭で手渡し愛行する際、受け取ってもらえる確率は私の場合は6~7人に一人位の割合である。それを百冊近く、一人で配るのは大体小一時間掛かる。でも私は割合、慣れている方なのでいつもの様に配っていた。
 それでやれやれ後、4~5冊位になった、これで終わったら、仲間と一杯飲みに行こうなんて思っていたら、仲間の内の一人が用事があるらしく、途中で帰ってしまった。それでまだ配り終わっていない普及誌を渡された。正直、ちょっと大変だなと思ったが、何のこれしき頑張って配ろうと思ったが、それから暫くしない内にもう一人の仲間もお子さんを教化部に残していて、もう帰らないといけない時刻になったので帰った。そして、その人もまだ配り終えていなかったので私がそれも引き受けた。そうしたら、割合ボリュームのある部数の普及誌が私の手元に残った。
 自分としては自分の分だけは殆ど配り終えていて、さあ、この仕事を終えて、後はビールだなんて考えていた時だったから、正直、重い気持ちになった。前述した様に「理想世界Jr版」が多く含まれていたので意外に部数が多く残っていたのである。
 
 前述の様にその日は前の日からテニスを二日ぶっ続けに続けてやったので体がきつかったので、これからこれだけの部数を手渡しで渡すというのはちょっと気が遠くなる様な気がして、もうボスト愛行(実際に人に渡すのではなく、家のポストにどんどん投函して行く愛行)に切り替えてしまおうかとも思った。
 
 しかし、その時、私は思った。自分はこの手渡し愛行を肉体の自分がやる所の苦役と思ってやるのかそれとも我が内なる神が行う悦びの愛行と思ってやるのかどうかと言う事を。
 それまでの私はこの手渡し愛行というものを割合、やっかいなものと感じていて、でも自分は慣れている方だから手っ取り早く済ませて、後は仲間とビールでも呑みに行きたいという様な考えでいたのである。
 仲間とビールはいいが、私はその時の経験が元で自分は手渡し愛行を苦役と思っていた部分があると気がついたのである。それでこんなことではいけない。この普及誌は私という我(が)が配るのではなく、我が内の神が配って下さるものであるから苦役でも何でも無いと思い直したのである。
 そうしたら、手に持っている普及誌が心なしか軽く感じられ、そして、ものは考えようで今から手渡し愛行を始めると思えばいいのだと思って、気を取り直して、又、道行く人に配りだした。そうしたら程なくして、いつの間にか手元の普及誌は全て、配り終えていた。

 愛行は最後は結局、私ともう一人の仲間、二人だけになったが、お互い、全力を尽くして、素晴らしい実のある愛行になったと思う。私の感想としては愛行とか伝道というのは我(が)が行う苦役と思えば苦しいが、内なる神が行うものであれば、軽く、又、悦びとなるのである。私は愛行を終えて見て、いつの間にかそれが終わったので、本当にそれは自分がやるのではない、神がやるのであるという実感を又、以前より深くしたのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-07-15 13:34 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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