人生は神生である。

 聞くところによると谷口雅春先生は反省は大事だが、自分は後悔なんてしないのだと仰っていたそうである。吾々は人生を生きていると自分のやった事、言った事に後悔するという事がある。あの時、ああすれば良かった、こう言えば良かったとか後で悶々と悩むのである。特に自分の身近な人が事件に巻き込まれて死んだり、重大な怪我をしたりするとあの時、自分がこうしていれば、あの人は死なずに済んだとか思い詰め、客観的に見ても、その身近な人の死が何等その人の責任ではなくても自分の行動の一部がちょっとでもその事件というか事故に対して関わりがあればそれで自分の責任の様に感じて、その後の一生、ずうっと罪の意識みたいなものにさいなまれるのである。

 しかし、これ全て、人生というものに対するとらえ方を間違えているからである。自分の人生というのは自分で生きている様で実は内なる神が生きているのである。自分の意思でああしよう、こうしようと思って生きている様で実は自分なるものは存在せず、神が自分をして生きているのである。だから、この人生は人生ではなく神の生、即ち神生と言うのである。自分がこの学校を選んで、この就職先に就職して、この相手を選んで結婚したという事は神がその学校を選んで、その就職先に就職して、今の半身を選んだのである。だから、何の間違いも無いし、従って後悔する必要は全くないのである。
 それをそうじゃない、この人生は自分の意思で生きてきた人生であるという認識が迷いであり、そうした迷った認識即ち歪んだ心のレンズを通して自己の人生を振り返って見ると後悔だらけ、罪だらけ、間違いだらけの人生に自分に認識されるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-10-01 12:57 | 信仰 | Trackback | Comments(5)
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Commented at 2008-10-01 17:00 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by koujihori at 2008-10-02 09:11
シークレットコメント様

 コメント有り難う御座います。そうですね。吾々がやっているのは神が神しているんですね。神想観も自分ではなくて、吾が内の神が神する神想観ですね。神想観だけではなくて、吾々は神ですから、一挙手一投足が神の一挙手一投足ですね。それが吾神なりの自覚ですね。
Commented by 山崎 at 2008-10-02 10:50 x
合掌、ありがとうございます。

大分涼しくなり、朝夕は冷え込む日もあります。そのような中、日々精力的にブログの更新をしている先生には感嘆致します。

自我を通して物事を捉えると、持ち越し苦労・取り越し苦労をしてしまいます。最近まで、生長の家に触れるまで、私自身はそのスパイラルにはまっていました。
さらにホンモノを、真の幸福とは何かを求め生長の家の扉を叩きました。
大学浪人を重ね重ね大学に入り上京し、来年からはやっと社会人ですが、もしストレートに大学に入学し社会人になっていたら私は生長の家・真理を求め出会っていたのだろうかと、ふと考えたりもします。
Commented by 山崎 at 2008-10-02 10:53 x
先生が仰るように、凡ては神の御計らいであるのでしょうか?それにしては、自分の過去を振り返り、考察すると首をかしげてしまう事が多々あります。
たまに“こんな人生行路を歩ませる神はいじわるだなぁ~。どうせこの世凡て一切合切が実相唯神真理であるならば、さっさと教え、出会わせてくれ、僕は頂上を見たく、そこで安穏と幸福に生きたいんだぁ!!!”と思ったりもします。

今となっては、“今、この瞬間”に座標軸を出来るだけ合しながら日々を営もうと努力精進していますので、ニコニコと神の子らしく愛らしく生きています。

過去(世)の業の集積か何かは分かりませんが、そのような一見悪しき現象が現れても、ただ三正行を、道元禅師のお説きの『只管打坐』を断々乎と行ずるだけであります(^^)

ありがとうございました。

山崎拝
Commented by koujihori at 2008-10-03 09:36
山崎様

 そうですか。山崎さんも大学浪人を重ねに重ねたんですか。僕もそうです。だから、結果的に家内にも巡り会い、息子にも出会えたわけで、ですから、人生何が幸いするか分かりません。ものごとは近視眼的に見るとつらかったり、不都合に見える事が沢山ありますが、長い目で見ればそれが良かったという事が多々あります。長い目というのは我(が)の目ではなくて、神の目ですね。ですから自分の運命を自分の勝手な判断で選り好みしないで全て良しとして受け入れる覚悟が必要なんです。表面的には如何なるものでもそれは全て、吾等の血となり肉となるのですから。それを神への全託の信仰と言います。

 それと同時に自分の人生が色々と不完全や間違いや罪に感じられるのはそれは自分の心が歪んでいるからです。自分の人生は本文にも書きましたが神の生であって完全円満で一つも間違いが無いんです。それをそう見えないのは今の自分の観に歪みがあるからそう見えるんです。その歪みが取れれば、自分の人生は表面的には色々あったけれども本質的には一つも間違いが無かったと自ずと分かります。
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