実相を観るということ

 よく、いじめっ子の親などがその子が学校などでいじめをしていても、「私はこの子を信じます」とか言って、自分の子供がいじめをしている事を認めようとも謝ろうともしないケースがある。それは自分の子供を盲信しているのである。悪い現象に目を閉じ、その子を盲信する様ではその子の悪はますますのさばってしまって、収拾がつかなくなるのである。
 
 私はある人物を組織内で登用しようとしていた事がある。それは私の目から見て、登用するに値すると思ったからである。しかし、それをしようとした直前にその人物に関する悪評を聞く事になったのである。その悪評は非常に信頼出来る者からのもので、私は直ちに私の腹づもりを変えた。その後、同様の悪評をやはり私の信頼できる他の人物からも聞く事になり、私の判断が間違っていなかった事を再確認したのである。
 
 人間は皆、神の子で無限の善であるが、それは現象を盲目的にそれでよいと認める事ではない。実相の完全円満さを観て、それを育てようという気持ちがあるからこそ、現象の本来でない部分に対して鉄槌を振るうのである。
 その本来でない部分を鋭敏にかぎ取り、それに対して、毅然とした処置を施すのは神からの智恵であり、それは結局実相直視の信仰から来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-10-16 12:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/8774392
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 愛するということ 生長の家とは何か(10) >>